2/2「お世話さま - 森本哲郎」新潮文庫 日本語 表と裏 から

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2/2「お世話さま - 森本哲郎新潮文庫 日本語 表と裏 から

こうした日本人の心性は、多くを要求することを権利と考えるようになった昨今の日本人にも依然として認められるといっていいであろう。さきごろ、一部の文化人の音頭で「小さな親切」運動なるものが提案されたとき、さっそく、こんなひやかしの反論があった。「小さな親切、大きなお世話」。大きなお世話というのは、余計なお世話と同義である。つまり、日本人の多くは、たとえ小さな親切であろうと、親切を押し売りされるのはごめんだ、と思っているのだ。ベネディクトの分析は、このように現在においても充分にあたっている。?
大きなお世話 - いったい、日本人がよく口にする「世話」とは何なのであろうか。いうまでもなく、人の面倒をみること、人のために尽力すること、であるが、もともとは読んで字のごとく、世間のうわさ、評判、の意味であった。『広辞苑』には語義として最初にそう記されている。それがなぜ、人のために尽力したり、人の面倒をみるという意味に転化したのであろうか。おそらく、そのような善行はすぐに人の口にのぼり、世間の評判になったからであろう。むろん、人助けをしたり、相手の望むように取りはからったりしてやることは、世間の評判を目当てにしての行為ではないが、人知れずに尽力すればそれだけ”善行”の価値は高まり、それがわかったときにはいっそう評判になる。その評判によっ て、かくれた善行は充分に報いられるのである。「世話」すなわち世間の評判が「人のために尽力すること」の意味に転化したのは、こうしたイキサツからではあるまいか。?
もっとも、人の面倒をみるという意味での「世話」というのは当て字で、本来は「忙しく奔走するの意」とする説(大槻文彦『大言海』)もある。この説によれば「世話」という言葉は「忙(せわ)し」に由来するという。つまり、人のためにせわしく奔走することであり、「取りまわし、引きまわすこと」というのだ。語源については確証というものがないから何ともいえないが、「せわをやく」「せわになる」「せわをかける」といった用法から考えると、どうもこの語は「世話」、すなわち世間の評判と関係がありそうな気がする。「世話」と漢字で書く用法は室町時代ごろから見られ、その場合の意味は「世間普通に行われる話、言葉あいはことわざ」だったが、元禄ごろになると近松の作品に現在とおなじ ように「面倒をみること」という使い方がされているという。(岩淵悦太郎『語源散策』)?
こうしてみると、語源をつきとめることがいかに厄介な作業であるか思い知らされるが、ことに日本語の場合は漢字で表記する場合が多く、その漢字一字一字がそれぞれに意味を持っているので、いよいよ混乱してしまう。「世話」とは「面倒をみること」であるが、では、「面倒」とは何なのか。前記の『大言海』は「面倒(おもぶせ)の当て字の音読か。または、目遠(めどお)く、の音便訛か、めだるの転か」と推測しているが、やはり確証はない。いやなことになると人間はつい顔を伏せてしまう。人のために尽力することは、けっして楽なことではない。厭(いと)わしいと感じることのほうが多い。そこで、つい顔を伏せがちなところから「面倒」という漢字が当てられたというわけだが、あるいはそう なのかもしれない。「面倒をかける」とか、「面倒くさい」といった用法がそれを暗示しているようだ。たしかに人の「世話」をすることは、「面倒」なことにはちがいないから。?

ところで、テレビや新聞をにぎわすような事件がおきると、その当事者は社会に対してかならず陳謝するというのが日本のしきたりのようである。当事者といっても、眉をひそめるような事件をおこした本人が陳謝するのではなく、その関係者、たとえば両親であるとか、上司だとかが、本人にかわって深く頭を垂れるのである。そうしないことには世間が許さないのだ。こうしたしきたりも、おそらく外国人には奇妙に映ることだろう。というのは、事件をおこした人間が未成年なら監督不行き届きということもあろうが、選挙権を持つ一人前の人間でも、たいていの場合、そうした関係者が謝罪しないことには、おさまりがつかないからである。?
これは何とも日本的な風景だが、その際、陳謝の言葉がまるで申し合わせたようにおなじ表現であることも日本的性格をたいへん正直に語っている。その陳謝の言葉とは「世間をお騒がせして、まことに申し訳ありません」という表現である。私はこの言葉をきくたびに不思議な気分になる。日本人にとって、社会に対する罪は何よりも「世間を騒がせた」ことにあるようだからである。?
たしかに社会を騒がせることはよろしくない。けれども、日本の社会は世界の中でもとりわけ騒がしい社会なのである。日本人はむしろ騒ぎを歓迎しているどではないかと思われるほど騒ぎを好み、騒音に無神経なのだ。祭りが大好きで、風流といいながら花見といっては騒ぎ、キリスト教徒でもない人たちがクリスマスといって騒ぐ。もちろん、こうしたお祭り騒ぎと犯罪などによる騒ぎとではちがうのであろうが、騒ぎ大歓迎の日本の社会で事件のたびに、関係者が「世間をお騒がせして」といって神妙に謝っている風景は、いかにも奇妙である。?
私はこのような日本的風景の中に、「お世話さま」の実体をみる。日本の社会を動かしているのは、一人一人の個人ではない。じつは世間の声、すなわち「世話」なのだ。それは日本的な合意による実体不明の圧力であり、あるときは個人を最大級に持ちあげ、あるときは個人を情容赦なく押しつぶしてしまう。だから、そのような「世話」はこの社会に生きる人にとっては、この上なくおそろしい。そこで日本人はできるだけ「世話」にならないようにつとめ、「世話」に巻きこまれることを極力避けようとするのだ。日本人の慣用語である「お世話さま」とは、おそろしい世間の声に対する尊称なのであり、この言葉こそ、日本の社会の特質をこの上なく正直に告白しているといえよう。?