「読書人 - 浅田次郎」集英社刊 ま、いっか から

「読書人 - 浅田次郎集英社刊 ま、いっか から
 

「読書人」の本来の意味は、「読書をする人」ではなく「読み書きのできる人」である。
もっと正確にいうなら、「科挙に合格して官途についた人」すなわち「士大夫(したいふ)」と同義語である。
漢語が抜群の表現力を持つ世界最高の言語であることは言を俟(ま)たないが、あまりにも高度に完成されてしまったがゆえに、難しすぎて識字率が低く、十分に読み書きのできる人はそれだけでエリートとされ、「読書人」と呼ばれて尊敬を集めた。
そもそも科挙という官吏登用制度は、門地にかかわらず広く人材を求めて皇帝直属の官僚団を組織し、貴族勢力に対抗させようとするアイデアが起源となっている。ところが、学問をするためにはそれなりの環境が必 要であるから、実はさほど公平な制度ではなく、貴族の子弟や地方郷紳(きょうしん)層の恵まれた子供らが、結局は役人になる。すると下々から見れば、「読書人」ははなから封建時代における「偉い人」、つまり支配階級を意味する結果となった。
遥か隋代に始まり、一九〇五年の廃止に至るまで千三百年間の長い歴史がありながら、科挙が公平な人材登用制度とはなりえず、封建社会をつき崩すことができなかった理由はこれである。中国には国民生活の現実を知る政治家が、その間ずっと出現しえなかった。
同じ封建社会であっても、かつての日本はよほどましであろう。たとえば豊臣秀吉のように、卑賤の出自であってもチャンスを得て登用されるという例はいくらでもあった。ことに幕藩体制が安定してからは、庶民教育が充実されるほどに、数は少いながらも実力次第で出世を果たす道は開けた。
両国のこのちがいはいったい何であろうと考えれば、二つの理由を思いつく。
ひとつは中国語と日本語の、決定的な難易度の差である。中国語は漢字という表意文字、それも「表意」というほど単純ではない、一文字に一つの世界を包摂するような漢字の集合によって文章を構成する。これの読み書きを達成するためには、幼時から英才教育が不可欠であり、むろん不断の努力を続けなければならない。それに較べれば、カナという表音文字に必要な分だけの漢字を組み合わせた日本語は、読み書きを習熟するにしても遥かに簡単であり、しかも話し言葉と書き言葉の境界が、中国語ほど明確にあるわけではない。
もうひとつの理由は、国土のかたちのちがいであろう。
中国は巨大で、平坦である。教育を施すにしても国民は広く分布しているので、集合させることもままならぬし、共通語を見出すことすら難しい。
その点、日本は国土が狭いうえにほとんどが人の住めぬ山岳であるから、地域の施政者がその気になれば均等な教育を人々に与えることが可能であった。しかも江戸時代の中央集権体制の完成によって、江戸の知識は均等に全国に配分された。参勤交代制のもたらした大きな福音と言えよう。
この二つの理由により、おそらく日本は江戸時代以降、世界一の識字率を誇る文化国家となりえたし、一方の中国はその人口比からすれば、すこぶる識字率の低い国であったはずである。
むろん、中国が日本より劣った国であるという意味ではない。科挙によって選抜され、なおかつ生涯を勉学に励まねばならぬ中国の読書人の、総合的教養の高さといったらとうてい日本人知識人の及ぶところではなかった。
つまり日本の教育システムは、元来が広汎で公平な社会主義的なそれであり、中国は少数精鋭の飛び抜けた叡智が社会を牽引していくという本質を、伝統的に持っているのである。
このごろ取材のために中国に渡る機会がしばしばあり、また日本ペンクラブの交流事業などで、当地の文学者と対話をすることも多い。そのつど、学者や作家のみなさんの教養度の高さには舌を巻く。科挙は百年前に廃止されたはずだが、中国の知識人というのは今日もなお、「読書人」すなわち「士大夫」の教養と威風とを感じさせるのである。
さて、冒頭の一行に立ち返って、「読書人」を「読み書きのできる人」と定義する。
日本は昔も今も、世界一の読書人大国である。明治維新からほんのわずかの間に欧州列強に比肩する国家となりえたのも、第二次大戦後に奇跡の復興をとげたのも、最大の原因は国民のほとんどが十分に読み書きできるという、いわゆる民度の高さにあろうと私は思う。
一八六八年から一八八五年の内閣成立までの十七の間、国民が遵守すべき旨が「太政官布告」という法令により公布されたことは、以前にも書いた。全国民が整斉(せいせい)としてこれに順(したが)うことができたのは、その「太政官布告」なる文言を、誰もがきちんと読み取ることができたからであろう。
また、それから六十年後に訪れた国家の災厄に際しても、人々は新聞の活字を通してすべてを理解した。国民は総力をあげて世界と戦ったけれども、その同じ国民がやはり総力をあげて復興をなしえたのだと思えば、やはり日本の実力は大和魂ではなく、世界一の民度にこそあるのだろう。つまり、平易で精密な日本語の実力、それを広く伝授した教育の成果、そして何よりも狭い地域に国民が集中して生きる、この国土の姿である。
その「言葉」と「教え」と「国のかたち」が、すなわちわれわれの「ふるさと」なのだという認識さえ持てば、愛国心君が代も日の丸も、何も要らない。
二百年も前から国民のほとんどが「読書人」であった国など、世界に類を見るまい。その伝統は今日まで続いているから、かくも書物に満たされているのである。都市のあちこちに一千坪の書店が林立する国など、地球上のどこにもなく、図書館の充実度もまた世界一であることは疑いようがない。だから私は、たとえ読書という行為の衰退が世界の風潮であるとしても、日本にだけはあってはならないと思う。すべてが「読書人」であるという矜りさえ捨てなければ、われわれは中国人からもアメリカ人からの、必ず尊敬される。
そうこう思う私は、世間から笑われつつも原稿用紙と万年筆をいまだに手放すことができず、今日もこうしてすこぶる非合理的な執筆を続けている。また、さらに非合理的なことには、いまだ幼時からの習慣で一日一冊の読書を欠かすことができない。
こんなことをしていたら周囲に迷惑もかけるし、後進からは追い抜かれるであろうし、いずれ体も壊すにちがいないとは思うのだが、どうしても「読書人」の聖火を捨てることができぬのである。