「いつもそばに本が - 島田雅彦」朝日新聞読書欄-ワイズ出版 から

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「いつもそばに本が - 島田雅彦朝日新聞読書欄-ワイズ出版 から

これまで暮らしてきた家は皆ろくでもない家ばかりだった。これまで食べてきたものも、近頃の青少年の食生活を笑えない代物ばかりだった。ある日、自分の余命を考えて、愕然とし、慌てて居住空間と食生活の改善に努めることにした。金の価値は老いるほどに下がる。若者にとっての十万円と老人にとっての十万円は大いに違う。おのが快楽のために使うにしても、体力の衰えによって、老人は限られた使い道しかない。また老人は、未来の自分に投資しようにも、余命が限られている。
老後の生活を心配して金を貯めたはいいが、結局それを使うことなくあの世に行った人の話をよく聞く。身寄りのない老人の場合、その金は国庫に入るという。国庫に収められるくらいなら、大学に行くとか、芸術活動に寄付するとか、いろいろ使い道はあっただろう。老後の生活に不安を与える社会だから、老人はやむなく金を使わずに貯めておくしかないのだ。
しかし、日々の糧を得ることよりも、老後に襲ってくる退屈の方が不安だ。おそらく教養というのは、老後の退屈を凌ぐ知恵のことなのだろう。放っておけば、おのずと働きが鈍くなる脳に日々、刺激を与え続けるために人は読書を習慣化したのかもしれない。だとすれば、本を読まない者はもっと老後を恐れなくてはならない。
幸い、住まいや食物に較[くら]べ、書物の方はこれまで後悔するほどひどい物は読まずに済んだ。もっとも、食物と違って読物は、いくらジャンクを食らおうが、一日何冊読もうが、体を壊すということはない。胃袋に較べて、脳は遥かに丈夫にできている。
幼い頃、私は偏食を極めていたが、本の方は選[よ]り好みしなかった。弟は私の逆で、食べられるものは何でも食べたが本は一切受けつけなかった。私はもの書きになり、弟はコックになった。毎月家庭に配本される童話は暗記するほど読んだが、オスカー・ワイルドが私のお気に入りだった。小学校時代、私は百科事典が好きで、暇さえあれば、それを読んでいた。百科事典というのは、たとえば、アメリカのことをゆく知ろうとすれば、あめふらしの習性やあめんぼの歩き方までわかってしまう実に便利なものだった。調べごとをするにも、目当ての項目にはなかなか辿り着かない。つい前後の項目で道草を食ってしまうからだ。しかし、この道草が積もり積もると、ある日、教養に変わっている。おそらくクイズのチャンピオンも百科事典の道草から生まれるはずだ。
百科事典を読む癖は息子が受け継いだ。私もかつては、何の脈絡もなく、ピテカントロプスだのマキャベリズムだのと呟いていたと思う。
 
難しそうな本をこれ見よがしに読む嫌みな同級生がクラスに必ず一人はいた。それが私だ。私は百科事典マニアだったが、百科事典には波乱万丈のストーリーがないので、中学の頃からは文学全集マニアに転向していた。文学史年表を見ながら、しらみつぶしに読み漁ってゆくのが、当時の私の読書流儀だった。しかし、文学史にその名をとどめる作品はどれも退屈で、三分の一も行かないうちに投げ出してしまった。質より量を求める読書では、平板な日本語で書かれた作品の方が有利だ。そこで手に取ったのが、江戸川乱歩全集、新田次郎全集、五木寛之全集(当時)、探偵小説全集などである。やがて、趣味が固まり出してくると、夢野久作全集や安部公房全集を読むようになる。現実逃避の傾向があった十代前半は、怪奇幻想系が脳によく馴染んだ。父が読んでいた宇能鴻一郎川上宗薫の官能小説を盗み読んだが、この時速読の基本を身につけた。
高校時代、主に通学の電車の中で読書にかまけたが、薄い文庫本なら行き帰りで一冊読めた。毎日の習慣ゆえ、この時期に読んだ分量はわが半生のうちで最大だっただろう。何しろ、この頃には文筆で身を立てようと考えていたので、ただ楽しみのために読書していたわけではない。趣味では本など読まない。読書は仕事だった。ただストーリーを追うだけではない。意外な言葉の結びつきとか、作家が偏愛する用語とか、比喩の発明などをチェックしていた。作品にはストーリー以外にもさまざまな仕掛けが施されており、そちらの方に気を取られて、ストーリーを忘れることも多かった。ストーリーのない百科事典も物足りないが、何処からでも読み始められる利点がある。大抵の小説はその逆。いつか、何処からでも読める小説を書きたいものだと考えていた。
ところで、私は文学にばかり忠誠を誓っていたわけでもなく、バンド活動や美術作品製作にもそこそこの情熱を示していた。浜辺に行けば、砂の彫刻を作るし、粗大ゴミの回収日にはリサイクルできそうな家具や楽器を拾ってきて、自作の楽器やオブジェを作るし、休日にはメンバーのうち誰かの家に集まって、作曲したり、貧乏アートに熱中していた。高校時代......それは私にとってアヴァンギャルドの時代であった。ポーやラヴクラフト夢野久作寺山修司の世界が、サルバドール・ダリフランシス・ベーコンのイメージ、セックス・ピストルズシュトックハウゼンサウンドと結びつき、私の破壊衝動を満たしていたのだ。結果的に読書が私を文章以外の表現ジャンルに誘惑したことになる。

高校卒業とともに私のアヴァンギャルド時代は終わった。混雑した予備校の教室で日々、欲求不満を妄想で中和しながら暮らしていた反動が、大学に入ってから噴出し、私は貯め込んでしまった妄想を吐き出す。美術部で、学生オーケストラでの活動のかたわら、小説を書く。自分の妄想に値段がつく日を夢見て、八〇年代のことである。
大江健三郎中上健次にあらたにW村上が加わり、学生読者を奪い合っていたが、私の関心は全く別の世界にあった。冷戦時代の子どもである私は個人的に反米主義の立場を表明しようと、ロシア語を学び始めた。いざ、始めてみると、この言葉はやたら文法が複雑で、同級生は一人二人と脱落してゆく。前期の二年間は気が抜けなかった。それでも、ある程度使いこなせるようになると、大抵の日本人に読めないロシア語の本が読みたくなる。入門編にチェーホフあたりが無難だったが、三年になると、翻訳もない二〇年代アヴァンギャルド時代の作品を読みたくなった。本国のソ連では発禁と聞けば、なおさら読みたくなる。ザミャーチンブルガーコフをはじめ、ナボコフ、マンデリシュタームなど、ロシア語を学び始めてから知った作家たちの作品を貪り読んだ。順序は逆になるが、彼らの作品のテンションに煽られて、ゴーゴリドストエフスキートルストイレスコフなど十九世紀の傑作群にものめり込んだ。同じ時期、ロシア・フォルマリスムやミハイル・バフチンの文学論も読み、小説を理論的に分析する方法を知った。つまり、まともにロシア文学を研究してしまったのである。文字通り、私は文学の洗礼を受け、これまでとは全く違ったスタンスで小説にアプローチすることになった。その成果がデビュー作の『優しいサヨクのための嬉遊曲』だった。
一九八三年......私とともに浅田彰がデビューし、ニューアカデミズムがブームとなる。この時期、私の本棚は今となってはほとんど読まれなくなった現代思想の書物に占拠されていた。フーコードゥルーズデリダクリステヴァ......二十年前までは一連のしち難しい本もそこそこに読まれていたことを思うと、活字文化から何が失われたかがよくわかる。
近頃、日本語の幼稚化にいっそう拍車がかかっている。ベストセラーのラインナップを見るにつけ、暗澹たる気分になる。みんな童話ではないか。分かりやすさの追求の結果が、このざまである。むろん、本を読まない若者ばかりを責められない。中年も老人も紋切り型の磨耗した日本語しか受けつけなくなっているのだ。どうやら、文字は読めても、文章が読めない非識字者ならぬ非識文者に出版の未来は握られてしまったらしい。