2/2「私はなぜ船に乗ったか - 北杜夫」中公文庫 どくとるマンボウ航海記 から

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2/2「私はなぜ船に乗ったか - 北杜夫」中公文庫 どくとるマンボウ航海記 から


ところで照洋丸というその船の大きさであるが、最初私が聞いたときは八〇〇トンばかりとのことであった。これはちっとばかり小さいなと思っていると、水産庁の役人の話ではそれが7〇〇トンとなり、船長の話では六一〇トンとなり、役所で貰ったパンフレットによると六〇二トン九五と書いてある。どうも段々と小さくなる。このぶんではいざ実物を見るときにはポンポン蒸気くらいに縮小してしまいそうである。
しかし船を見に東京湾まで行くと、照洋丸は白く塗られたなかなか瀟洒な船で、ちゃんと鉄でできていた。もっともさすがに大きくはなく、翌日出港するという宗谷の傍を通ったときはそれが小山のように巨大にみえた。医務室もなかなか完備しているが、船医の居室には正直のところガッ カリした。いくら狭くても個室が貰えるものと思っていたのに、二段ベッドの二人部屋だったからである。幸いなことに、同室の三等航海士(サード・オフィサー)は、ときにフカのごとき不気味な目つきで人を睨む悪癖を有するほか、極めて気持のいい男であったのは悪魔のハカライというべきで、海上では船が全世界であり、個人の世界は居室だけに限られるから、万一カンシャクもちでネゴトもちでヤブニラミでキンキラ声の、かつ大ボラフキでオセッカイでカサッカキでダッチョウの男なぞと一緒になった日には、そのユーウツさは比類ないものであろう。もっとも贅沢は言えぬので、士官(オフィサー)を除いた一般船員はみんな船底の大部屋であり、ここでは個人的生活はわずかにカーテンをおろすた寝棚ひと つの面積に限られている。
さて、それからの三日間というもの、怠惰なる私にとってはまさに世界の終末がきたかと思われた。なにしろ私はめったに床をあげぬほど無精者なので、手際よく荷物をつくりあげるなどという芸当は生まれつき不可能なのである。私はカバンの蓋など開け、その中に幾冊かの書物と衣類をつめこんだが、それだけで疲れてしまい、すでに半分ほど飽きてしまい、果ては茫然としてマンガなど読みだす始末であった。しかるに航海の経験をもつ連中が現われて、いれんなことを言う。そのたびに私は、インド洋はさぞかし暑かろうと半ズボンなどをつめ、冬の北大西洋はさぞかし寒かろうと登山に使うヤッケなぞをつめた。「なだいなだ」というふざけたペンネームを有するHが現われ、 いいかね、山みたいな大波がくるぞ、コップでも何でも忽ち木っ端ミジンだ、などと大仰なことを言うので、私はわざわざ金属製のコップ、灰皿などを買いこんだ。Aという心理学者で国際ゴロみたいな男が現われ、フカを機関銃で射つのは面白いぞと教えてくれたが、機関銃を買いいこむわけにはいかず、ただ彼が船中で飲むコーヒーのいかに美味であるかを力説するので、わざわざネスカフェーなどを買いに出かけた。その間、私はそれまでの勤務にカタをつけねばならず、船の検疫と予防接種に立会ったり、海運局で船員手帳を貰ったり、夜は夜で飲みに出かけなければならなかった。私は支度金をもらったので、カメラやナイロンシャツやボールペンなどを購入し、すっかり物持ちになり、荷作りは益々面倒 なものになってきた。あまつさえMが現われ、もっとこまごました日用品が大切だ、そんなもので向こうで金を使うのが一番つまらないぞと言うので、歯ブラシ、鼻紙など商売できるほど買いこみ、ほとほと途方にくれ、こまごましたものなんて考えだせばキリがないから、しまいにはカンシャクを起し、もう何がきたってこれ以上入れるものかという気になった。
しかし彼等はなかなかいいことも言ってくれた。Mは、ミヤゲなんて買わずに一杯でも多く酒を飲めと言った。それからスケッチブックを持ってゆけとも言った。スケッチなどする閑はないだろうというと、いやいや、長い航海ではのんびりスケッチなどしないと時間を持て余す、写真と違ってまた格別の味わいがある。私はなるほどと思い、画用紙と鉛筆を羊に食わせるほど買いこんだが、結局一枚の絵も描きはしなかった。またAは、ミヤゲに風呂敷を持ってゆくといいと言った。そんなものさらさら持ってゆくつもりはないと答えると、いやいや、外国の街を歩いていてひょっと思いがけない親切を受けるときがある、御礼しようとしてもこっちには金がない。あっても金ではまずいことがある、そうい うときにやるには絹の上等なものを買ってゆく必要はない、百貨店などでくれて使うにも始末に困る奴を集めてゆくがいい。私はなるほどと思い、貰い物の風呂敷を何枚か持参したが、これもちっとも効果的に使いはしなかった。と言うのは、いざそれをあげたいと思う女の子などに会ったときにかぎり私は風呂敷を持ちあわせていなかったからである。私はけしからぬエジプトのパイロットなんかにそれを与える羽目になったり、思いがけず世話になった日本人のところに致し方なく置いてきたりした。そういう日本人のお宅では、ミヤゲに持ってきた風呂敷というからには恐らく上等のものと考え、あとで見ればデパートのマークなんぞあるのでさだめしアキれたろうと思うが、これは私の責任ではない。
辛う じて十一月十五日、出港の二時間前になって、私は行李とトランク二個をフウフウ言いながら船に運びこんだ。それをほぐしたり並べたりしていると早くも時間である。この三日間でクタクタの上に少し酔っぱらっている私には感慨なんて起りようがなかった。それでも無数のテープが潮風になびいて音を立てたときにはちょっといいものだなと思ったが、じきにこれは大変間の抜けたことであることがわかった。なぜなら曳船にひかれた船は容易なことでは岸壁から遠ざからず、その間見送り人も船の者もテープを抑えたり手をふったりしつづけねばならぬので、終いにはすっかり手がくたびれてしまうのである。いっそのこと、双方でロープかなにかをエイエイ曳きあい、敗けたほうがザンブと海に落ちこむこと にしたらどんなものであろう。
ともあれ、こんなふうに、私は自分でもオヤオヤと思っているうちに、日本を離れてしまった、と人は思うだろうが、実はその翌日ちゃんと新宿の裏町を歩いていたのである。
船はその日の夕方千葉の館山に着き、ここで米を積みこむため一日半停泊することになった。館山に近づくころになると、船の非番の連中は汽車の時間を調べて帰宅の用意をはじめた。なかには家にほんのちょっと寄るだけですぐまた汽車に乗らねばならぬ遠距離の者もいる。そのくらい海で暮す人にとっては陸と家が貴重なものになっているのだろう。こんなところから帰ってゆくなどとは考えてもみなかったから、どうしたものかと迷っている私にむかって主席航海士(チーフ・オフィサー)が言った。
「ドクター、海に出てしまうとね、あのときもう一晩畳の上で寝ておけばよかったとあとで思いますよ」
私はこの言葉に感心し、その夜おそくノコノコ東京に戻ってきた。翌日新宿をぶらつき、はじめてノンビリした気分になり、映画を見たりパチンコをやったりした。そうしていると、なにか密入国でもしたみたいな、へにに擽(くすぐ)ったい気分がつきまとってくる。なにぶん今度の航海はだしぬけに決ったのでごく一部の人にしか知らせることができず、おまけに私はホラ吹きなので友人の大半は信用せず、ひどいのになると私が帰ってきてからも「マグロ船に乗ったそうだが本当か?そこらに隠れてたのじゃないか」などと言われたが、事実は一日だけ余計日本にいたのである。
このとき私は誰にも 戻ってきたことを知らせなかったけれど、Aにだけは或る用件を思いだして電話をかけた。電話口の向こうで、さすがにビックリしたような声が叫んだ。
「なんだ?もう逃げちまったのか!」