2/2「(遠野物語)解説 ー 山本健吉」新潮文庫 遠野物語 から

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2/2「(遠野物語)解説 ー 山本健吉新潮文庫 遠野物語 から

文壇に志を断ったことは、氏の専攻した農政学、農民史の研究へ打ちこむきっかけとなったはずだが、そうはならないで、民間伝承への興味を次第に心の中でふくらませて行く。そのはずみをつけたのは、明治四十一年五月から八月へかけての『後狩詞記(のちのかりことばのき)』の採集を行なった九州旅行であった。この時は熊本を手はじめに五木から鹿児島県下をまわり、日向椎葉村から大分へ出たが、奥深い山地の椎葉村では一週間ほどたいざいして、村長中瀬淳から、口または筆で伝えられて来た狩の故実の話を聞いた。
この旅は、自分でも「九州の田舎を細かく見た」(『遊海島記』附記)と言われる旅だが、その頂点に椎葉村行があった。椎葉へ行くきっかけは、熊本である人 から日向奈須(椎葉)の話を聞き、興味を抱いて訪ねることを思い立ったのだが、その前に、同じく熊本の阿蘇男爵家へ招かれて、近代の模写品ながら下野の狩の絵が六幅あるのを見て、感動したことに基づいている。その絵には獲物の数が実に夥(おびただ)しい上に、侍雑人(ぞうにん)に到るまでの行装が如何にも美々しかった。その年々の狩は、阿蘇神社の厳重の神事で遊楽でも生業でもなかったが、世の常の遊楽よりははるかに楽しいものであったことが、この絵を見て納得された。そのかつての神事の名残である狩の慣習と作法とを、椎葉村の生活は今において伝えていた。それをありのままに伝えることに、柳田氏の興趣は動いたのだが、それは何も辺境の希風殊俗への好奇心というに止まらず、もっと広く日 本人の原初の生活を少しでも明らかにしたいという願いからである。下野の狩の絵は、弓矢を以(もつ)てする狩の黄金時代の記録であるのに対して、椎葉の狩詞の記録は、鉄砲を以てする狩の白銀時代の記録であり、そこに記された慣習と作法とが、黄金時代の楽しい神事の姿を垣間見させてくれるのである。柳田氏自身、この狩詞の採録を通して、かつて厚い尊崇を捧げられていた山の神に、激しい興味を掻き立てられているさまを覗(うかが)うことができる。
椎葉村を訪れた年の十一月、氏は佐々木喜善に会い、東北の遠野郷の話を聴いた。『後狩詞記』に次いで、『遠野物語』が、氏の自費による第二の出版となる。「西南の生活を写した後狩詞記が出たからには、東北でも亦一つ出してよい。三百数十里を 隔てた両地の人々に、互いに希風殊俗というものは無いということを、心付かせたいというような望みもあった。幸いにこの比較研究法は、是が端緒となって段々と発達して居る。それから今一つは前々年の経験、味をしめたと謂っては下品にも聴えるが、人には斯(こ)ういう報告にも耳を傾ける能力があるということは、あの時代としては一つの発見であった。現にそれから後、急に美人や風景や名物の土産品以外に、若い人たちの知りたがる地方事実が増加したのである。」(『予が出版事業』)
遠野物語』には山の神、里の神、家の神、山人、山女、雪女、河童、猿・犬の経立(ふつたち)などについての怪異な話が充ち充ちている。『後狩詞記』で興味を抱き、胸にひそかに問題として蓄えておいた山の神につ いて、『遠野物語』はその疑問に答えるかのように、その豊富な資料を提供している。常民の生活意識をその根底において規制するものは、その信仰(原始的な呪術を含めて)であり、氏の学問的追求の根本には、神の問題を解くという願いがあった。
農政学から民俗学への転換の契機は何かということが、論者たちにいろいろと問題にされている。『遠野物語』執筆の前後には、両方の仕事が混交しているが、氏の農政学が経世済民の志を基にしているのに対して、民間伝承の採訪は如何にも好事(こうず)的、趣味的に見えた。だが、これを政治的な関心からの脱落と見るのは、柳田氏の真意をあまりにイデオロギッシュにしか解しない者の言であろう。もともと氏には、経世済民の志と並んで、文学への情熱があ ったが、それ以上に宗教的心情の持主であったことを考えないわけには行かない。折口信夫の心の底に潜む「迢空的暗黒」には人も気づくが、柳田氏の心にも底知れぬ「混沌」が存在することに、人はあまり気づかない。これは氏が、客観的、合理的な思考者であったことと矛盾しない。神の問題は氏の心に最初から宿っていた。そのことが、氏を単なる農政学者であることに満足せしめない。農民をも含むところの日本の常民全体の心に宿る神とは何かという問いかけが、氏の学問的追求の根底にはあった。
「一口に言えば、(柳田)先生の学問は『神』を目的としている。」「今迄の神道家と違った神を先生は求めていられる。」(『先生の学問』)と、折口信夫は言っている。そして、柳田氏の学問と平田篤胤の 学問との類似点を、彼は挙げている。それは篤胤が、妖怪や仙人のことを調べ、神隠しにあった虎吉という少年を自分の家に養って、いろいろ実験し観察したことなどをいうのである。あれほど客観的記述を重んじた柳田氏が、不思議なことに、少年時代に神隠しの経験を持ったような、不思議な感受性を持っていた。氏の父君松岡操もまた、平田学派にかかわりがあって、中年から神官となった。神や祖先や魂や妖怪変化などは、氏の民俗学の中にはっきり位置づけられ、それは民俗学の限界を逸脱しても追求された。そのことが、経世済民の志と並んで、常に氏の心裡であった。そしてその追求のいとぐちが、椎葉村や遠野郷が語り出す言葉の中にあった。農政学を超えることで、柳田氏の世界はあの見事な拡り の世界を獲得することが出来た。



(以下割愛)