「水のような - 吉行淳之介」ちくま文庫 吉行淳之介ベスト・エッセイ から

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「水のような - 吉行淳之介ちくま文庫 吉行淳之介ベスト・エッセイ から

絵画や音楽の分野でのひとかどの人物の書いた文章というのは、いくら破格であってもずいぶんと面白く、一つの達成という感じがある。具体的にいえば、二十年ほど前にある文芸雑誌に載った梅原龍三郎氏のかなり長いエッセイは文法など自己流のものだったが、その面白さはまだ覚えている。谷内六郎氏の文章もかなり破格だが、面白い。面白いとだけ言っていてはいけないのかもしれないが、とにかくしかるべきもので、一つのすぐれた形の人間性が文章に滲み出ている。
人間は小学生ぐらいのころから、その生活のなかで実用的な文章を書く必要が多いので、しぜんに文章の習練が身につく。じじつ、梅原氏や谷内氏の文章はそういう事情も加わっていると言って間違いではないだろう。しかし、実用てして折りにふれて書いてきた文章にも、書き手のすぐれた感受性や感覚、つまり芸術的要素が滲みこんでいるのを軽視するわけにはいかない。
ここで思い出されるのは、谷崎潤一郎の『文章読本』のなかの「文章に実用的と芸術的との区別はない」という一項目である。いま私はそれに対しての反対意見を出したので、谷崎潤一郎の意図を引用しなくてはならない。「文章の要は何かと言えば、自分の心の中にあること、自分の云いたいと思うことを、出来るだけその通りに、かつ明瞭に伝えることにあるのでありまして、手紙を書くにも小説を書くにも、別段それ以外の書きようはありません。昔は『華を去り実に就く』のが文章の本旨だとされたこともありますが、それはどう云うことかと云えば、余計な飾りを除いて実際に必要な言葉だけで書く、と云うことにあります。そうしてみれば、最も実用的なものが、最もすぐれた文章であります。」(吉行註。中央公論社が三十九年二月から日本文学全集を刊行することになって、そのときに新カナ新漢字に文章を変更する作業を編集部がおこなうことを、谷崎氏は諒承した)。
この『文章読本』は小説家のために書いたものではない旨の前書きがあるが、文中の言葉の意味に微妙な違いを感じる部分もある。引用した意見には、私は全面的に賛成だが、末尾の「最も実用的なもの」という文章は「最も実質的なもの」あるいは「必要で十分なだけの言葉で書かれたもの」と替えてもらわないと、落着かない。
たとえば、何月何日に会合があるから出席してほしい、というきわめて実用的な手紙が仮に女性から届いたとする。その手紙が、「青葉の色の目に染む五月となりましたが、お元気でしょうか」
というような書き出しだったとすれば、すくなくとも小説家なら、うんざりしてそのあとを読むのはには、気を取り直さなくてはならないだろう。
ただ、上手な書き出しだと感心する人のほうが、世の中には多いのではなかろうか。そのうんざりする気持は、その文句の紋切型のためだけでなく、実用的な手紙が「芸術的風」の文章からはじまるところからも起ってくる。
これが会合の通知状でなくて小説だとすると、五月という季節を飾るために紋切型でない凝った言葉が使われていた場合には、案外好評だったりする。小説の中でも、余計な飾りはつけないで、五月なら五月だけでいいじゃないか、というのが私の意見であるし、谷崎氏もまたそのことを言おうてしたとおもう。
カクテル(酒類の一種について私は行っているわけだが)は現在衰退していくばかりなので例として適当でないかもしれないが、新奇な調合法を考え出した人が一世を風靡することもあった。そういうものは、間もなく忘れられる場合が多いのだが、新奇なカクテルをつくろうとする頭と心の動かし方は、その当人の中に深く絡んでいて、いまさらそれに苦情を言っても無駄である。
あまりにも有名だが、「文は人なり」という言葉がある。すこし違う言い方をすれば、文章を決定するのはその内容であり、内容とはモチーフやテーマのことであるが、そういうものを定めるのは、それを書く当人の精神内容である、ということになる。
つまりその苦情は、「なぜ君の眼と眼の間隔は狭いのか」というのに似ている。しかし、どうせカクテルをつくることに熱心なら「ドライ・マティーニ」くらいに、古典的になるものを考案してほしい。
ここで話の成行きからいえば、私は灘の生一本のような文章が書きたい、と落着きそうだが、じつは私は水のような文章が書きたい。水道の水では駄目で、あれはカルキのにおいがする。
水は無色透明無臭だが、無味ではない。味ともいえない微妙な味がある。私はその日の気分や体調によって、飲みたいものはさまざまあって、飲めばうまいとおもうのだが、結局は水が一番好きである。水には、贅沢をしている。ポットに入れたミネラルウォーターを机の上に置いて、それを飲みながら仕事をしている。一日二食だから、食事の間隔は九時間くらいあるが、そのあいだ水のほかはなにも口に入れない日がほとんどである。
しかし、文章が水になるのは至難である。文章作法として水になることを考える、すでにそこに企みが混って、べつの飲みものに変ってしまう。
そして、水になってしまえば、「文章に実用的と芸術的との区別はない」ことになる。