1/2「遺書状を書く必要がなかった人 - 新藤兼人」新潮文庫 ボケ老人の孤独な散歩 から

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1/2「遺書状を書く必要がなかった人 - 新藤兼人新潮文庫 ボケ老人の孤独な散歩 から

田中絹代は、昭和五十二年三月二十一日順天堂病院で死んだ。脳腫瘍。六十七歳であった。この一世を風靡した大女優に遺言状はなかった。
脳腫瘍のため、最後は盲目となった。
「目が見えなくても、やれる役があるだろうか」と側近にもらしている。
死後のことは考えなかった。生きている間だけのことしかあたまになかった。目が見えなくてもなったことが恐怖だった。
十七歳でスターの座にのぼり、松竹を背負って立つほどの大スターになったが、ぼつぼつ人気が下りかけた三十歳のとき、溝口健二に出会って演技開眼(かいげん)した。
溝口・絹代コンビが残した『西鶴一代女』『山椒大夫』『雨月物語』は人のよく知るところである。溝口健二は絹代に執着することによって生涯最高の仕事をした。
溝口健二は、昭和三十一年八月二十四日京都府立病院で死去した。単核細胞白血病。五十八歳だった。
溝口健二にも遺言状はなかった。死の前、「もう新涼だ 早く撮影所の諸君と楽しく仕事がしたい」と乱れ字の辞世らしきものを残したが、リアリスト溝口にはふさわしからぬ言葉だった。そんなおだやかな心境ではなかったにちがいない。死の無念さを抱えて逝った。
溝口の死後二十年も生きた絹代は、年をとると共にきびしい道を歩むことになる。スターの条件は若さである。目じりにしわが寄り頬がたるんでくると大衆は目をそむける。老(ふ)け役しか回ってこない。それでも昔日の栄光を背負って生きなければならない。
絹代が死の床に横たわったときは無一文であった。いったんスターの座にのぼったものはスターの座を失ってからも、スターのプライドを捨てきれない。華やかだった幻影を捨てることができないのだ。いつかまた、王座をとり戻せそうな気がする。日常のおだやかな雰囲気にしずかにひたる心境にはなれない。スターとは非人間的な存在なのである。
仕事がしたい、もう一度ライトを真向からあびたい。自分というものがなくなったらおしまいなのだ、あとのことなど考えられない。だから絹代は遺言などを書く必要はなかった。
溝口健二は『大阪物語』という中村鴈治郎主演のシナリオを作って、撮影にはいる準備中にたおれた。病床に呻吟(しんぎん)しながらもこの撮り方ばかりを考えていた。溝口健二田中絹代のように、仕事だけに生きたのである。家庭よりも仕事であった。家庭の不幸など意に介さなかった。むしろ家庭の不幸が溝口健二をふるいたたせた観さえある。昭和十六年に作った『元禄忠臣蔵』の最中に夫人が発狂してから、溝口健二の家庭は二度と元には戻らなかった。
仕事で結ばれた溝口健二田中絹代は、男女の愛でも結ばれたが、結婚という形にはいたらなかった。だから死の間際には互のたましいは相寄ったとも思えるのだが、それはメロドラマに冒されたものの勘ぐりで、二人の胸に去来したものは死への無念さだけだったろう。
小津安二郎は、昭和三十八年十二月十二日六十歳で永眠した。頸にがん症状の瘰癧(るいれき)ができ、全身に転移した。生涯独身であった。母に仕え、母を送っての死である。
この人も仕事ひとすじであった。頑固に自分自身に固執した。溝口健二は陋巷(ろうこう)に埋もれた女の生態をとらえたが、小津安二郎は平凡な庶民の良俗と正義を描いた。庶民は体だけで生きて死ぬのである。カネを残しもしないし、教訓を垂れたりもしない。あるときぽつんと死ぬだけなのである。もったいぶって遺言状を書いたりはしない。
小津作品の正義は何かというと、ゆずりあいである。人を押しのけて前へ出ないという生き方、これが小津作品のすべてであった。
すぐれた映画監督に富に恵まれた人は少ない。良心的な監督は年に一本か二年に一本かである。その収入はたかが知れている。バイプレーヤーの収入にも達しない。だから残すべき財産もない。この点からいっても遺言状など書く必要はないのだ。