「金と女 - 邱永漢」中公文庫 金銭読本 から

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「金と女 - 邱永漢」中公文庫 金銭読本 から
 
金と女と - こう並べると何となくほほえましくなって来る。二つながらに男の追求ね対象であり、二つながらになかなか掴まらず、やっと掴まったと思った途端に興味の大半を失って、なかなか男を満足させてくれない。けれども中国の俗言に「女のために死に、金のために千里を走る」とあるところを見ると、男の生き甲斐の大部分はこの二つに集中されており、それも主として追求過程に集中されているらしいのである。
女と金はまた次の点で似ている。即ち最も必要な時に欠乏し、もう沢山だと思う時(滅多にないかもしれないが、少なくとも不自由しなくなった時)にはかえってゾクゾクと集まってくる。そして、その集まり方は、男前だとか、才能だとか、まして人格や徳性とは関係なく、もっぱら運によって左右される。金運とか女運とかいって、ツク時はやたらにツクが、ツカない時はさっぱりである。だから血眼になって追いかけたらとて必ずしも金持や艶福家になるとは限らず、反対にジッとしていたら金が転がり込むことや押しかけ女房がないかというと、必ずしもそうではない。そこで人間の欲望や努力と足並みを揃えてくれない金のこうした性質を、中国人は、金には四本の足があるという表現をし、こちらが金を追っかけているようではとても駄目だが、金の方でこちらを追いかけてくるようになれば、とそればかり願っている。もっとも、女もそうであるかどうかについては、目下研究中で、まだまだ結論を出す時期には到達していない。
しかし、金のために身を滅ぼす男があるように、女のために身を滅ぼす男がいる点ははっきりしついる。あらゆる犯罪の動機が金または女、あるいはその双方と何らかの意味で関係がある。これは金と女がいかに男によって重視されているか、その一?一笑[いっぴんいっしょう]によって男たちがいかによろめくか、という証拠であって、金にとっても女にとっても決して不名誉な現象ではない。
私はもっぱら男の立場から金を論じてきたが、これは偶然私が男に生れたからであって、もちろん、女の立場から男と金の関係を論ずることも可能である。ただその場合、男と金の類似性よりも、その対照性が気にかかるのは、やはり私が女性の眼をもって男性を見ていないからであろうか。なるほど金も男も、女の懐中をホテルと心得て、入って来たかと思ったら、またすぐ出て行ってしまう点では似ているが、金と男は一緒に身につかず、貧乏な間は温順[おとな]しく帰って来る男も金が出来ると次第に遠ざかり、金と男はどちらか一方した女と縁がない。誰しも結婚生活には多少の夢を託しているから、金と引きかえに男を他の女に売ろうという気にはなれないものだが、売る売らないにかかわらず、金には男を遠ざける一面があるし、また金もない癖に遠ざかる男がざらにいることと考え併せると、金と男と二つに一つということになるば、どうしても他人に安心して預けておくことの出来ない男よりは、銀行に預けておけば利子がついて帰ってくる金の方を選ぶ気持になるのは当然であろう。私はすべての女が欲得で動くとは考えないが、どちらかといえば、女の方が男よりも金に敏感で金に執着を持っていると思っている。そして、それは女が経験によって賢くなった証拠であると思っている。
女が男に比べて金に執着を持っているのは、家計を任されていて、限られた金の範囲内でヤリクリ算段をやって行かねばならないために、金の有難さが身に沁みているというせいもあるけれども、より本質的には愛情というものの頼りなさに起因しているのではないだろうか。男は家にいてくれといっても、なかなかいう通りになってくれないが、金は箪笥の中へ入っておれといえば入っているし、油揚げに化けろといえば油揚げに化けるし、着物に化けろいえば立ちどころに着物に化ける。変化自在でしかも持主の意志通りに動く。世話の焼ける男に比べると、どう見てもこの方が魅力がある。少なくとも安心感がある。
そこで金ほど頼りになるものはない、ということになるが、それがまた女の弱点になって、『金色夜叉』のお宮のようにダイヤモンドに目がくらんでしまったりする。英雄は色を好むので、仮に英雄を関止めするものがあるとすれば、それは美人の関であるが、美人は金を愛するので、美人には金銭の関という関所がある。古来、この関所を乗り越えることの出来た美女才媛は残念ながらあまりその例をきかない。男が金のために動くのも、もとをいえば、女のこうした実利精神に一半を負っていると考えられる。
では世の中で金持が一番強いかというと、必ずしもそうではない。「金持喧嘩せず」といわれるのは、金持になると一事が万事鷹揚になって、コセつかなくなるからではなくて、むしろ逆に臆病風が吹きはじめるからだ。金持は金がかわいい。もし彼が幸福であるとすれば、その幸福は金によって支えられているものであることを十分認識している。だから金を失うのは生命を失うにも等しい苦痛である。ところが、「金銭魔多し」だから、金持だといいこともある代りに禍もまた多い。「無いより強いものはない」とか、あるいは逆に「玉を懐いて罪あり」とはこの問の事情を示した言葉であろう。そして、貧乏人は生命と金をとりかえるような冒険をも辞さないが、金持は金で生命を買い戻そうとするから、金持には生命の関という関所がある。金持が英雄の前に立つと顔色がないのは、金持といえども生命はひとつしかなく、しかも金持の生命の方が値段が高いからであろう。すなわち、英雄→美女→金持→英雄という関係になっていて、世の男たるものは、金持になるか、もしくは金持を脅かすか、の二つに一つを選ばねば、なかなか美女にありつけない有様にある。
こうした関係は、金銭の絶大な魔力によるものであるが、今日、経済学として世に通用しているものは、人間関係を取り扱わず、たとえば、貨幣→商品→貨幣、といった純粋に物質的な現象としてしか金銭を見ていない。したがって、金銭の泣きどころである「金銭を使うことから生ずる快感」、それに付随して起る「快感を抑制して貯蓄することの快感」などは一切不問に付せられている。経済学が当然のこととして取りあげなかったそうした面を究めることは多分、経済現象の正しい把握のためにも、また人間の生活を理解するためにも必要であろう。それがこの稿を起す動機にもなっているのである。