1/2「いろいろの死 - 尾崎一雄」岩波文庫 日本近代随筆選1 から

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1/2「いろいろの死 - 尾崎一雄岩波文庫 日本近代随筆選1 から

人間が、いよいよ死ぬ、呼吸を引きとると云う刹那の有様を、よく見て置きたいと思ったことがある。今せう云うことを考えていると云うのではない、かつて考えたことがあるのである。なぜそんなことを思いついたのか - その原因は、多分或る頃の私が、余りにたびたび人間の死を見たからであろう。そして、そんなにたびたび人の死に場に居合わせながら、あとで思い返して見ても、死の刹那というものがハッキリ印象に残っていない、どうしてもその時のことが頭に浮ばないことに気づいたからであろう。それは全く不思議なほどボンヤリした記憶しか私は死の刹那について持たない。その時はハッキリと印象されたものが、忘れっぽい私の頭のせいでだんだんとボヤケて了[しま]ったものか、或いはまたその場にいる私が、純粋な印象を受け入れるために障りとなるいろいろな感情にとらわれているためか、さらにまた生物と云うものはいつとなく(それは極めて短い時の間ではあっても)死んでゆくものだからであるか、その辺のことも私には判らない。兎に角変なことであると云うの外[ほか]はない。
祖母が死んだのは、私が七つのときであった。この人は強情な、男のような気性の人であったが、自分の病気を死病だと云って誰がなんと云っても薄笑いをしていた。大して苦しみもせず死んで行った。いつのまにかつめたくなっていたのである。
母の母が死んだのは、私が九つのとき。これは、早く早くと女中が呼びに来たので、駆けつけると、みんなが熱心にその顔をのぞき込んでいた。医者が手を握っていた。もう少しも動いてはいないようでだったが、死んだと皆がざわめき出したのは大分経ってからであった。私はこの人の死の姿より、早く早くと女中が呼びにくるまで遊んでいたその遊びの方をハッキリ覚えている。母の実家の近所に女学校があり、もう学校がひけて生徒の一人もいない運動場の隅で、私は近所の子供三、四人と遊動円木にのっていた。その中に一人、十六、七の大柄な、青年と云っていいのがいて、派手に一人でやって見せていたのが、誤ってころげ落ちた。半ば遊動円木の下敷になり、漸く自分で這い出したが背中を打ったと見え、あぐらをかいたまましかめつらをして背中を痛そうに延ばし、どう云うわけか「芝居見に連れていってくよ」とその地方の方言で云った。そんな様子の方をハッキリ覚えている。
祖父は私が十三の時死んだ。中風で寝ていて、母に随分世話をやかせた人だった。勿論私はその場にいたわけだが、よく覚えていない。
私が十八、九の頃、生れて間もない弟が死んだ。月足らずで、弱かった。始めから無事に育つかどうか危ぶまれていたが、一週間目かに死んでしまった。母と私が、代る代る抱いては、じっと顔をのぞき込んでいた。母が抱いているとき、赤ん坊は首をそらし、細いあごを落すようにして開いた口で、かすかな呼吸をしていた。それまでを覚えている。
父が死んだのは私が二十二の時だ。父は眼をつむったまま、何か云いつづけていた。唇を少しうごかして、割に大きな声で何か云うのだが、意味は全然判らない。朗々と云っていい位の声が、死ぬ前の人によく出たものだと今でも思う。二十二をかしらに四人の子供を置き去りにする、と云うことが頭を離れず、一心に私達に向って云いきかせていたのであろう。私達に話は通じていると思ったことだろう。そんなに声を出しながら、表情はまるで木彫の人形のようで、少しも動きはしなかった。その声もだんだんと小さくなり、やがて黙って了うと、呼吸をするたびに小鼻がひくひくと動いた。引く呼吸の方がだんだんと多くなり、フッと呼吸がとまったと思うと、また大きな呼吸をした。しかし、ハッキリああ死んだと思った印象はない。
上の妹が、二十一で死んだ。三つ違いだから、私が二十四の時だ。私が一番悲しんだのは、この妹の死だった。その頃私は肋膜炎をやり、学校を休学して郷里の家で療養をしていた。妹は腎臓炎だったが、私が病気中に病み出し、私が全快しないうちに死んで了ったのだ。妹が病んでいる一年の間、私は病人ながらも妹の看病をした。母は私と妹の二人の看病で、よく身体がつづいたと思う。妹は私の云うことでないときかなかった。尿毒が頭に来て、殊に視神経を犯され、歩いている人が逆さに見えるときがある。「逆さに歩いてはいや」と云われるのはつらかった。妹が私の云うことだけは何でも信じている様子はあわれで、私は看病に全力をつくしたが、とうとう死んで了った。その癖妹が呼吸をひきとるときのことはちっとも記憶にない。覚えているのは、妹の死体を母が泣き乍[なが]らアルコールで拭いてやったことや、その顔を紅やおしろいで化粧してやっていたことだけだ。私は、大正十四年四月、初めて出した同人雑誌の第一号にこの妹の死を材料にした小説を書き、翌十五年十月には、その小説に手を入れたものを「新潮」に出して初めて原稿料を貰った。私が早稲田を出る前年である。