2/2「変な音 - 夏目漱石」岩波文庫 日本近代随筆選1 から

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2/2「変な音 - 夏目漱石岩波文庫 日本近代随筆選1 から



三ヶ月許[ばかり]して自分は又同じ病院に入った。室は前のと番号が一つ違う丈[だけ]で、つまりその西隣であった。壁一重[ひとえ]隔てた昔の住居には誰が居るのだろうと思って注意して見ると、終日かたりと云う音もしない。空いていたのである。もう一つ先が即ち例の異様の音の出た所であるが、此処には今誰がいるのだか分らなかった。自分はその後受けた身体の変化のあまり劇[はげ]しいのと、その劇しさが頭に映って、この間からの過去の影に与えられた動揺が、絶えず現在に向って波紋を伝えるのとで、山葵卸[わさびおろし]の事などは頓[とん]と思い出す暇もなかった。夫よりは寧[むし]ろ自分に近い運命を持った在院の患者の経過の方が気に掛った。看護婦に一等の病人は何人いるのか聞くと、三人丈[だけ]だと答えた。重いのか聞くと重いそうですと云う。夫[それ]から一日二日して自分はその三人の病症を看護婦から確めた。一人は食道癌であった。一人は胃癌であった、残る一人は胃潰瘍であった。みんな長くは持たない人許[ばかり]だそうですて看護婦は彼等の運命を一纏めに予言した。
自分は縁側に置いたベゴニアの小さな花を見暮らした。実は菊を買う筈の所を、植木屋が十六貫だと云うので、五貫に負けろと値切っても相談にならなかったので、帰りに、じゃ六貫やるから負けろと云っても矢っ張り負けなかった、今年は水で菊が高いのだと説明した、ベゴニアを持って来た人の話を思い出して、賑やかな通りの縁日の夜景を頭の中に描きなどして見た。
やがて食道癌の男が退院した。胃癌の人は死ぬのは諦めさえすれば何でもないと云って美しく死んだ。潰瘍の人は段々悪くなった。夜中に眼を覚すと、時々東のはずれで、附添のものが氷を摧[くだ]く音がした。その音がやむと同時に病人は死んだ。自分は日記に書き込んだ。 - 「三人のうち二人死んで自分丈[だ]け残ったから、死んだ人に対して残っているのが気の毒の様な気がする。あの病人は吐気があって、向うの端から此方[こっち]の果迄[はてまで]響くよいな声を出して始終げえげえ吐いていたが、この二、三日夫がぴたりと聞えなくなったので、大分落ち付いてまあ結構だと思ったら、実は疲労の極[きょく]声を出す元気を失ったのだと知れた。」
その後患者は入れ代り立ち代り出たり入ったりした。自分の病気は日を積むに従って次第に快方に向った。仕舞には上草履を穿[は]いて広い廊下をあちこち散歩し始めた。その時不図[ふと]した事から、偶然ある附添の看護婦と口を利く様になった。暖かい日の午過[ひるすぎ]食後の運動がてら水仙の水を易[か]えてやろうと思って洗面所へ出て、水道の栓を捩[ねじ]っていると、その看護婦が受持の室の茶器を洗いに来て、例の通り挨拶をしながら、しばらく自分の手にした朱泥[しゅでい]の鉢と、せの中に盛り上げられた様に膨れて見える珠根[たまね]を眺めていたが、やがてその眼を自分の横顔に移して、この前御入院の時よりもうずっと御顔色が好くなりましたねと、三ヶ月前の自分と今の自分を比較した様な批評をした。
「この前って、あの時分君も矢張り附添で此処に来ていたのかい」
「ええつい御隣でした。しばらく○○さんの所に居ましたが御存じはなかったかも知れません」
○○さんと云うと例の変な音をさせた方の東隣である。自分は看護婦を見て、これがあの時夜半に呼ばれると、「はい」という優しい返事をして起き上った女かと思うと、少し驚かずにはいられなかった。けれども、その頃自分の神経をあの位刺激した音の原因に就[つい]ては別に聞く気も起らなかった。で、ああ左様[そう]かと云ったなり朱泥の鉢を拭いていた。すると女が突然少し改まった調子でこんなことを云った。
「あの頃貴方の御室で時々変な音が致しましたが...」
自分は不意に逆襲を受けた人の様に、看護婦を見た。看護婦は続けて云った。
「毎朝六時になると屹度[きっと]する様に思いましたが」
「うん、彼[あ]れか」と自分は思い出した様につい大きな声を出した。「あれはね、自働革砥[オートストロップ]の音だ。毎朝髭を剃るんでね、安全髪剃[かみそり]を革砥へ掛けて磨[と]ぐのだよ。今でも遣[や]ってる。嘘だと思うなら来て御覧」
看護婦はただへえと云った。段々聞いて見ると、○○さんと云う患者は、ひどくその革砥の音を気にして、あれは何の音だと看護婦に質問したそうである。看護婦が何[ど]うも分らないと答えると、隣の人は大分快[い]いので朝起きるすぐに、運動をする、その器械の音なんじゃないか羨ましいなと何遍も繰り返したと云う話である。
「夫[そり]ゃ好[い]いが御前の方の音は何だい」
「御前の方の音って?」
「そら能[よ]く大根を卸す様な妙な音がしたじゃないか」
「ええ彼[あ]れですか。あれは胡瓜を擦たんです。患者さんが足が熱[ほて]って仕方がない、胡瓜の汁[つゆ]で冷してくれと仰[おっ]しゃるもんですから私が始終擦って上げました」
「じゃ矢張[やっぱり]大根卸の音なんだね」
「ええ」
「そうか夫[それ]で漸[ようや]く分った。 - 一体○○さんの病気は何だい」
「直腸癌です」
「じゃ到底[とても]六[む]ずかしいんだね」
「ええもう疾[と]うに。此処を退院なさると直[じき]でした、御亡くなりになったのは」
自分は黙然としてわが室に帰った。そうして胡瓜の音で他[ひと]を焦[じ]らして死んだ男と、革砥の音を羨ましがらせて快[よ]くなった人との相違を心の中で思い比べた。