「スティーブン・キングの恐怖 養老孟司」文春文庫 涼しい脳味噌 から

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スティーブン・キングの恐怖 養老孟司」文春文庫 涼しい脳味噌 から

恐怖という感情は、奇妙な感情である。この感情は、人間には非情に強い。動物が恐怖を感じるか否か。わが家の馬鹿ネコは、近隣のボス猫に脅されたり、犬に追われたりすると、小便を漏らす。こういう反応から見るかぎり、ネコも恐怖を感じるとしてよいようである。ただし、こういう恐怖は、はなはだ具体的な恐怖である。危険の対象が、現に目の前に存在している。
キングの恐怖はすこし違う。そもそも小説だから、われわれの目の前にあるのは、文字だけである。そんなものが、怖いはずがない。そう思うのが論理というものであろう。むろん、キングという恐るべき職人の手にかかると、文字もまた新しい恐怖を生み出す。『シャイニング』の主人公は、夏はリゾートだが、冬は無人になる山のホテルに、妻子とともに留守番として閉じこもる。ゆっくり小説を書こうというのである。執筆はかれの日課になる。しかし、ホテル「憑き物」が、かれを次第にとりこにして行く。ひょっとして主人がおかしいのではないか。そう疑いだした奥さんが、ある日、主人の執筆している原稿に触れる。うずたかく積み上がったタイプ済みの原稿。それにはすべて、まったく同じ一つの文章だけが、繰り返し、繰り返し、打たれてある。「こんなに仕事をしては、自分は狂う、自分は狂う」と。映画でこのシーンを見たときは、正直なところ、背筋がゾッとした。
この小説の終りでは、ホテルの前にある、動物の形に刈り込んだ生け垣が、直接に見ていないと、背後からジリッと、自分たちに近づいてくるという場面がある。これは子供でもわかる恐怖であろう。たしかこれに類する子供の遊びがあったはずである。
キングは執筆中に、自分でも怖くなって、座っている椅子から動けなくなるという。これだけ恐怖という主題に集中すると、あらゆる恐怖のレパートリーが、キングの作品の中にあって少しもおかしくはない。
同じホラー小説でも、「血まみれ」のクライブ・パーカーとは異なって、キングの恐怖は正統的である。ホラー小説などはなから嘘に決まっているのだが、その嘘を読ませるためには、話に説得力が要る。『呪われた町』は古典的な吸血鬼ものだが、この話の作り方でキングの才能がよくわかる。こういうありきたりの筋立てで、ここまで読ませるのは、なみたいていの力量ではなかろう。個々の場面に説得力を欠いたホラー小説くらい、くだらないものはないからである。
翻訳で難儀するのは、ユーモアである。日本語にすると、ちっとも可笑しくない。恐怖も、これといささか似たところがある。翻訳すると怖くなくなるのでは、ホラーにならない。キングの場合には、話の設定に無理がないし、筋書きが自然だから、「構造的に」怖い。その点、文章表現にあまり依存していないから、翻訳でも楽しめるのであろう。それでも、『クリスティーン』のように、廃車が主人公になると、ややおもむきか違うかもしれない。原書はじつに怖いが、翻訳はどうだろうか。どうも怖さが、やや減っているような気がする。アメリカの小さな町の、乾いて荒れた人物と光景とが、日本語にするとなんだか薄まってしまうのである。
他方『ペット・セマタリー』は、そういう問題が少ないか。私はこれん台湾のホテルで読んだ。たまたまネズミを採りに、一週間の旅をしたからである。毎晩これを読んでいたら、まったく退屈しなかった。夜になると、ホテルの人が「要・不要」と書いた紙を持ってくる。女が要るかというのである。昔ながらの筆談である。女が要るなら、「要」に丸を付ければいい。そんなものは要らない。キングが一冊、あればいい。
この小説は、墓場の恐怖を集約している。墓場に洋の東西はない。墓場は怖いものと、昔から相場が決まっている。だから、そこに翻訳の問題はないはずである。もっともそのかわり、題名自体が翻訳困難である。なぜなら原題では「墓場」という単語「セマタリー」を、わざと子供流に綴りを誤記してある。この墓場には、子供たちが死んだ自分のペットを埋めに行くのである。すると、ペットがなぜか、「生きて帰ってくる」。綴りの問題では、翻訳のしようがないではないか。
この本は、ヨーロッパでもずいぶん人気があった。これのペイパーバックが出版された頃、たまたまヴェニスを訪れたが、本屋にイタリア語訳が山積みしてあったのを記憶している。仏訳も人気があった。パリでも、多くの書店の店頭を飾っていた。昨夏はフランクフルトだったが、キングのドイツ語訳は、本屋にはほとんど出そろっていた。ウンベルト・エーコの新作『フーコーの振り子』もたくさん積んであったが、ドイツの本屋は新刊に英語本の翻訳が多い。ハイデルベルグの本屋の店員に、ドイツ語のオリジナルの小説で、売れ行きのよいのを訊いたら、ローゼンドルファーを勧められた。これはオーストリアの小説家である。たしかに、オーストリアの方が小説は面白いかもしれない。『白い国籍のスパイ』を読めばわかる。日本と同じで、ドイツ人は真面目だから、純文学でないとバカにするところがあるが、キングの翻訳がこれだけ出ているのだから、ドイツ人の純文学好みもさしてアテにはならない。書く方はともかく、読む方にしてみれば、小説はやっぱり面白い方がいいにきまっている。
キングはホラーばかり書くわけではない。ファンタジーもうまい。子供の頃に、こういう小説があったら、私も小説家になったかもしれない。『タリスマン』はパラレル・ワールドを描いた長編である。いま出ている『ダーク・タワー』もファンタジーである。『ウォーターシップダウンのうさぎたち』を書いたアダムスは、いつの時代ともつかず、どことも特定されない世界を書くのがうまい。ただし、この種のファンタジーはむやみに長くなる。読む方も本当は終って欲しくない。せっかく入り込んだおとぎ話の世界から、出なくてはならないからである。それなら長い方がいい。小説はおとぎ話に限るか。
(一九九一年二月)