(巻二十二)しぐるるや捜査本部の午前四時(富士原志奈)

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7月8日月曜日

所沢警察署と尾久警察署には捜査本部が置かれているのだろう。

梅雨は明けず気温は四月並みだという。洗濯物が乾かない。
今朝もトイレの換気扇を消し忘れて叱られた。始まったのかもしれないな。男の子が片付いたのが大きい。成人女性には申し訳ないが呆けるのも悪くないと思ってますよ。

叱られて拗ねたる夫の端居かな(内田歩)

そう言えば、土曜日に八階の爺さんが婆さんにエントランスのところで叱られていた。勝手に外に出て道に迷って、親切な方が送って来てくれたという状況のようであった。
あそこの場合は爺と婆さんの歳の差が大きそうだから爺さんも安心して呆けられるが、うちの場合はそうではないから共倒れになるな。そうなると心中しかないな。

音粗き迷子放送かき氷(大塚凱)

昼間は床屋に参る。ただそれだけのことです。鏡を見れば先は長くないだろうと想像がつくな。
帰りに飲もうと思えば“ときわ”で飲めた、“餃子市場”でも飲めたし“吉楽”でも飲めたが呑む気にならずだ。

寝酒にした。

永らえてみても良し悪し寝酒かな(?)

本

「東京なまり - 山本夏彦」文春文庫 完本文語文 から

を読みました。
向田邦子さんの東京弁について『あ・うん』を叩き台にして褒めている文章です。

向田邦子はこれが昭和十二年だということをわざと明かさないで手をかえ品をかえ読者に承知させる。忠犬ハチ公が死んでいる。双葉が四場所優勝している。時代考証というが誰が見ても昭和十年前後の貧しい家庭なのに、戦後の読者は香をたいているから金持、中流の家庭だと勘ちがいする。中流なら女中がいる。
昭和戦前という時代をこれだけ彷彿たらしめた作品はないのに、事は志と違うのである。
私は彼女が小説中に東京弁を用いて他を用いないのに驚くのである。戸をあけたてと言ってあけしめと言ってない。湯あがり湯かげんと言って風呂あがりと言ってない。松の内は早仕舞いといって店じまいといってない。抵抗である、店じまいは店をたたむことだ。
向田邦子は父の転任に従ってはじめ東京、宇都宮、鹿児島、高松、小学校だけでも転々としている。それにもかかわらず東京の言葉しか用いないのは母方の祖父が日本橋の建具屋で、邦子は戦後その家に四年近く下宿させてもらって専門学校を出たからである。この時東京弁を自分のものにしたのである。
東京弁が中心だったのは漱石の時代までである。漱石の弟子は多く田舎の高等学校(旧制)出の帝大生である。上京直後の一年間かけずり回って寄席と芝居を見て東京弁を自分のものにしようと試みた。四十年近くたって向田邦子はそれに似たことをしたのである。以後それをする人は絶えたから私は懐旧の情にたえないのである。”

江戸弁・東京弁については井上弘美さんが母上の話として江戸弁・東京弁について語っている(「井上弘美」で検索すると二作品出ます。そのうちの『なまなかなもね』がそれです)。
この前段々でご一緒した旦那は木挽町だと言っていたが、そんな口調でしたなあ。

東京の江戸が散りゆく花見かな(潤)