「ナゾの季節物、冷やし中華 - 東海林さだお」文春文庫 タコの丸かじり から

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「ナゾの季節物、冷やし中華 - 東海林さだお」文春文庫 タコの丸かじり から

冷やし中華始めました”
という張り紙が、あちこちのラーメン屋の店頭で見られるようになった。
これを見て、
「そうか、そうか。もう、そういう季節になったか。そうか、そうか」
と、そうか的うなずき、そうか的ほほ笑みをもって迎え入れてくれる人もいれば、
「始めたきゃ勝手に始めればいいだろうッ。もうッ」
と、妙に反抗的になる人もいるから世の中はむずかしい。
冷やし中華始めました”の張り紙は、軒先をかすめるツバメや、庭先に咲き始めるアジサイなどと共に、夏の到来を告げる風物詩となっている。
この張り紙によって、客はその店が冷やし中華を始めたことを知る。
まだやっていないのを知らずに冷やし中華を注文し、
「まだやってません」
と冷たく突き放すように言われて恥をかく、という事態を、この貼り紙によって避けることができる。
「すみません。まだなんです」という姿勢が本来だと思うのだが、こと冷やし中華の「やってない」ことになると、なぜかラーメン屋は居丈高になる。
(やってなくてどこが悪い)という姿勢になる。
もう一つ納得がいかないのは、“始めました”を店頭に告知するならば、当然、“やめました”も告知しなければならないはずだ。
それなのに、いまだかつて、“やめました”の張り紙を見たことがない。
九月半ばころ、まだやってるかなあ、と思いつつ、注文すると、
「もうやってません」
と、冷たく言われたりする。
なぜラーメン屋は、冷やし中華の、「やっている」「やってない」のことになると居丈高になるのか。これは大きなナゾである。
本当はやりたくないのにやらされている、という迷惑感みたいなものがあるのだろうか。一種の兵役義務みたいな、義務感でやっているのだろうか。この張り紙のナゾはまだある。
日本そば屋にも、同じ季節物として、冷やむぎ、ソーメン、冷やしたぬきなどがあるが、こちらはなぜか、“始めた”の張り紙をしない。
店内の柱なんかに、ひっそりと張ったりしてあるが、店頭に告知するということはめったにない。
ラーメン屋は、“始めた”と騒ぐが、日本そば屋は騒がないのである。
これはなぜだろうか。
また、ラーメン屋は、どうやって冷やし中華を始める日を決めているのだろう。
鮎のように、「全国一斉冷やし中華解禁日」というのは、今のところないようだ。
ラーメン屋のおやじさんが、神宮館高島暦などをパラパラめくって、「方位と吉凶とお日柄」のあたりを参考にして、冷やし中華によいお日柄を決めるのだろうか。
冷やし中華が、一年を通したメニューの仲間入りができず、季節物としてのみの地位に甘んじているのはなぜだろう。
冷たいから夏向き、という考え方は当たらない。
盛りそば、ざるそばは、同じ冷たさなのに、一年中メニューのなかにある。
それだけの実力がない、ということはいえそうだ。
冷やし中華は、何をいいたいのか、何を具現したいのかがよくわからない。
ラーメンならば、
「脂と醤油の混じりあいです。麺のコシです。熱いです。よく煮こんだチャーシューです。シナチクです。麺とスープのバランスです」
と方針が明確である。
冷やし中華のほうは、わけがわからない。
「ま、酢ですね。それにゴマ油。ま、適当ですね。あ、そうそう、それにカラシですね。エート、あとは、ま、いろいろのっけてます。いいたいことは何もありません」
と、しどろもどろである。
麺の上にのせる具は、基本的には、キュウリ、ハム、うす焼き卵、ベニショウガ......、高級品になっていくに従って、蒸しどり、クラゲ、チャーシューの細切り、しいたけ、エビ、カニなども参加してくる。これらの具は、すべて他の料理からの流用である。
ラーメンのチャーシュー、シナチクは、一応譜代ではあるが、強力な家臣である。
冷やし中華のほうは、外様ともいえない流れ者の寄せ集め部隊である。
冷やし中華のためには死も惜しまぬ、という奴は一人もいない。
ここのところが、冷やし中華の哀れなところだ。
そして、麺の底に、ひっそりと暗く沈んでいる液体、あれもわけがわからない。スープなのかタレなのか、ツユなのかシルなのか、名称さえいまだに定かでない。そしてそれを麺に、かけたのか、ひたしたのか、浴びせたのか、沈めたのか、それもよくわからない。
確かに麺の上からタレをかけたラーメン屋のおやじでさえ、
「そう言われてみっと、かけたのか、ひたしたのか、浴びせたのか自分でもよくわからなくなったス」
と、なぜか急に東北弁になって困惑の表情になるのである。
作るほうも何となく確信がなく、釈然としないまま作り、釈然としないまま客に供し、客のほうも釈然としないまま食べ始め、釈然としないまま食べすすみ、食べ終わっても釈然とせず、ハテ、この残ったスープは飲んだものか、飲まないものなのか、しかし飲みたい、しかしみっともない、おっと、スープじゃなかったタレだっけ?シルだっけ?ツユだっけ?と思いは千々に乱れ、店を出てからも釈然としない食べ物なのである。
盛りつけ方も店によってマチマチだ。
麺の全域に、きっちりと類別に立てかけてある店もあれば、無秩序パラパラふりかけ方式の店もある。
食べ方もよくわからない。
最初に麺と具をグシャグシャにかきまわしてしまう人もいる。
一般的なのは、とりあえずキュウリあたりをワキに排除して突破口をつくり、そこから麺をほじくり出すという方式である。キュウリだけでなく、具を全部排除して麺まる禿げ、という状態にしてしまう人もいる。
いずれにしても、冷やし中華はあまり上品に食べないほうがいい、少し乱暴に、下品にガツガツ食べたほうが、冷やし中華の食べ方として上品である。