(巻三十七)時間外勤務のやうに八重桜(矢島渚男)

6月27日火曜日

(巻三十七)時間外勤務のやうに八重桜(矢島渚男)

曇り。朝家事なし。細君は記帳に出かけた。AVを観てはみたが飽きた。幾らでも見られるとなるとつまらないものだ。西村賢太氏が一人三回説を唱えていたが、賛同いたす。

早目の昼飯をパック赤飯とカップ麺(餅入りカレーうどん)で済ませたところへ前々から欲しがっていたロール・アップ・ピアノ他を買って細君が帰ってきた。60鍵だそうだ。お店の話では在庫が切れるほどの売れ筋商品だそうで細君の年代の婆さんたちがよく買っていくらしい。1950年代の少女たちにピアノは憧れだったのだろう。「演奏会はやらなくていいからね」とは申しておいたが『寝床』のようなことになるのではないかと危惧される。

で、試してみようと開いてみると電源コードの端子がUSBでコンセントから直には取れない。取り敢えず災害時用ラジオにUSBのメスがあったのでそこから電流を引いた。毎度毎度ラジオを貸すのも嫌なのでUSB-ACアダプーターを駅前の量販店まで買いに出かけた。婆さんが買うのだから、ピアノの販売員さんもそのあたりことは教えておかないとまずいな。

往にトモちゃん、コンちゃんに挨拶し復りはバスにした。

願い事-ポックリ御陀仏。

夏霧や妻は第一発見者(目黒輝美)

再読は、

「ナゾの季節物、冷やし中華 - 東海林さだお」文春文庫 タコの丸かじり から

冷やし中華始めました”

という張り紙が、あちこちのラーメン屋の店頭で見られるようになった。

これを見て、

「そうか、そうか。もう、そういう季節になったか。そうか、そうか」

と、そうか的うなずき、そうか的ほほ笑みをもって迎え入れてくれる人もいれば、

「始めたきゃ勝手に始めればいいだろうッ。もうッ」

と、妙に反抗的になる人もいるから世の中はむずかしい。

冷やし中華始めました”の張り紙は、軒先をかすめるツバメや、庭先に咲き始めるアジサイなどと共に、夏の到来を告げる風物詩となっている。

この張り紙によって、客はその店が冷やし中華を始めたことを知る。

まだやっていないのを知らずに冷やし中華を注文し、

「まだやってません」

と冷たく突き放すように言われて恥をかく、という事態を、この貼り紙によって避けることができる。

「すみません。まだなんです」という姿勢が本来だと思うのだが、こと冷やし中華の「やってない」ことになると、なぜかラーメン屋は居丈高になる。

(やってなくてどこが悪い)という姿勢になる。

もう一つ納得がいかないのは、“始めました”を店頭に告知するならば、当然、“やめました”も告知しなければならないはずだ。

それなのに、いまだかつて、“やめました”の張り紙を見たことがない。

九月半ばころ、まだやってるかなあ、と思いつつ、注文すると、

「もうやってません」

と、冷たく言われたりする。

なぜラーメン屋は、冷やし中華の、「やっている」「やってない」のことになると居丈高になるのか。これは大きなナゾである。

> 本当はやりたくないのにやらされている、という迷惑感みたいなものがあるのだろうか。一種の兵役義務みたいな、義務感でやっているのだろうか。この張り紙のナゾはまだある。

日本そば屋にも、同じ季節物として、冷やむぎ、ソーメン、冷やしたぬきなどがあるが、こちらはなぜか、“始めた”の張り紙をしない。

店内の柱なんかに、ひっそりと張ったりしてあるが、店頭に告知するということはめったにない。

ラーメン屋は、“始めた”と騒ぐが、日本そば屋は騒がないのである。

これはなぜだろうか。

また、ラーメン屋は、どうやって冷やし中華を始める日を決めているのだろう。

鮎のように、「全国一斉冷やし中華解禁日」というのは、今のところないようだ。

ラーメン屋のおやじさんが、神宮館高島暦などをパラパラめくって、「方位と吉凶とお日柄」のあたりを参考にして、冷やし中華によいお日柄を決めるのだろうか。

冷やし中華が、一年を通したメニューの仲間入りができず、季節物としてのみの地位に甘んじているのはなぜだろう。

冷たいから夏向き、という考え方は当たらない。

盛りそば、ざるそばは、同じ冷たさなのに、一年中メニューのなかにある。

それだけの実力がない、ということはいえそうだ。

冷やし中華は、何をいいたいのか、何を具現したいのかがよくわからない。

ラーメンならば、

「脂と醤油の混じりあいです。麺のコシです。熱いです。よく煮こんだチャーシューです。シナチクです。麺とスープのバランスです」

と方針が明確である。

冷やし中華のほうは、わけがわからない。

「ま、酢ですね。それにゴマ油。ま、適当ですね。あ、そうそう、それにカラシですね。エート、あとは、ま、いろいろのっけてます。いいたいことは何もありません」

と、しどろもどろである。

麺の上にのせる具は、基本的には、キュウリ、ハム、うす焼き卵、ベニショウガ......、高級品になっていくに従って、蒸しどり、クラゲ、チャーシューの細切り、しいたけ、エビ、カニなども参加してくる。これらの具は、すべて他の料理からの流用である。

ラーメンのチャーシュー、シナチクは、一応譜代ではあるが、強力な家臣である。

冷やし中華のほうは、外様ともいえない流れ者の寄せ集め部隊である。

冷やし中華のためには死も惜しまぬ、という奴は一人もいない。

ここのところが、冷やし中華の哀れなところだ。

そして、麺の底に、ひっそりと暗く沈んでいる液体、あれもわけがわからない。スープなのかタレなのか、ツユなのかシルなのか、名称さえいまだに定かでない。そしてそれを麺に、かけたのか、ひたしたのか、浴びせたのか、沈めたのか、それもよくわからない。

確かに麺の上からタレをかけたラーメン屋のおやじでさえ、

「そう言われてみっと、かけたのか、ひたしたのか、浴びせたのか自分でもよくわからなくなったス」

と、なぜか急に東北弁になって困惑の表情になるのである。

作るほうも何となく確信がなく、釈然としないまま作り、釈然としないまま客に供し、客のほうも釈然としないまま食べ始め、釈然としないまま食べすすみ、食べ終わっても釈然とせず、ハテ、この残ったスープは飲んだものか、飲まないものなのか、しかし飲みたい、しかしみっともない、おっと、スープじゃなかったタレだっけ?シルだっけ?ツユだっけ?と思いは千々に乱れ、店を出てからも釈然としない食べ物なのである。

盛りつけ方も店によってマチマチだ。

麺の全域に、きっちりと類別に立てかけてある店もあれば、無秩序パラパラふりかけ方式の店もある。

食べ方もよくわからない。

最初に麺と具をグシャグシャにかきまわしてしまう人もいる。

一般的なのは、とりあえずキュウリあたりをワキに排除して突破口をつくり、そこから麺をほじくり出すという方式である。キュウリだけでなく、具を全部排除して麺まる禿げ、という状態にしてしまう人もいる。

いずれにしても、冷やし中華はあまり上品に食べないほうがいい、少し乱暴に、下品にガツガツ食べたほうが、冷やし中華の食べ方として上品である。