「素材四分に人柄六部 - 菅原文太」文春文庫 そばと私 から

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「素材四分に人柄六部 - 菅原文太」文春文庫 そばと私 から
 

映画の時代劇で食い物屋の場面と言えば、まずそば屋である。
長谷川伸山本周五郎、近年では池波正太郎藤沢周平津本陽の時代小説でも、やはりそば屋が良く出てくる。そしてそば屋へ入った登場人物が飲み、食するものは、これまた共通して、夏は冷や酒と盛りそば、冬は熱燗とかけそばと決まっている。私自身も、作品の中では数少ない時代劇の中で何度かそれらの場面に遭遇した。
登場人物はおおむね浪人者、腹がけどんぶりの職人たち、遊び人たちと相場が決まっているのだが、本当はどうだったのであろう。殿様や、御代家の侍たち、大店の主たちの姿は時代劇のそば屋ではとんと見かけたことがない。まずそばの嫌いな日本人はいないのだから、「目黒のさんま」ではないが、お屋敷でのびたそばでも食べていたのだろうか。
日本人のそば好きと言えば、全国津々浦々、そば屋とラーメン屋とカレーライス屋の無いところはない。
この三つの品目を全部一店で賄っているところも駅前などには多いし、ラーメンとカレーライスはかなりまずくても食えないことは無いが、そばだけはまずいそばは食えたものではない。そばくらい旨い、まずいのはっきりした食べ物は無い。にもかかわらずかなりまずいそば屋でもつぶれないで、堂々と営業しているのがマカ不思議。日本人がそれほどそば好きで、そば屋に寛大なのかもしれない。
私はグルメでも無く、そば通でも無い、ただのそば好きの日本人の一人だが、そば屋の評価には厳しいと周囲から思われている。
この原稿を書きながら、近所のそば屋からざるそばを取って、どっちが片手間か分からないが食べながら書いているのだが、出前のそばはおいしいと言うところからはほど遠い。
やはり茹であげて冷たい水でさらしたものをその場で食べる。しかしそれ以上に良いそば粉と練り方、つなぎを入れるか入れないか、それからさらに重要なのはそばツユの味。それは素材四分に人柄六部、と私は思っている。これは何の仕事にも通じることだろう。
繰り返すようだが、私はそば通でも無くグルメでも無い。カレーライスならまっ黄色なドロドロとしたメリケン粉(古いな、この言葉。メリケン粉はすでに死語か)に、ニンジン、ジャガイモ、タマネギ、豚肉ゴロゴロタイプが好きだし、ラーメンについてもしかり、熱ければ良いとしてごく簡単。ついてはそばも同様で、”盛りそばしか食わねえ”などというガンコ者ではなく、冬はカモ南蛮、カモの無い時はニシンかテンプラ、春、夏は盛りそば。そう言えば、不思議とザルそばは注文しない。ノリがそばの味を消すからだ。ここらへんがウルサイと言われる所以だ。
気取った通相手の店よりは、実質本位の何気ない、しかし応対にも調理にも心のこもった店が好きである。時代劇に出てくるような繁盛したそば屋はおそらくそんな店だろう。そういう店が近頃少なくなってきた。
飛騨に山小屋をもって十五年ほどになるが、行く度に必ず寄る店がある。高山市の花川町にある、『恵比寿西店』というそば屋さんである。雪道を踏んで飛騨の山の野生のカモを使った南蛮に朝市の七味唐辛子をぶっかけて食べる味は、これは無上の楽しみである。
十数年前にはまだ少年だった跡取り息子が今や一人前のそば職人に成長し、店を仕切りはじめているのが見ていても誠に頼もしいし、人柄六分を絵に描いたような風で、一生懸命立ち働いている姿がそばの味を一層引き立てているのだ。都会の雑踏と過密な人口の中では人の生きる姿、働く姿が見えにくくなっているのも食べ物の味を味気なくさせている。
そろそろ、そばの白い花の見える地方へ脱出の潮時か。