2/2「近代日本の作家の生活 - 伊藤整」岩波文庫 近代日本人の発想の諸形式 から




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2/2「近代日本の作家の生活 - 伊藤整岩波文庫 近代日本人の発想の諸形式 から

明治維新は、そのような文人たちの生活に大きな変化をもたらした。民衆の興味が、これまでの戯作小説から離れた。魯文は新しい題材の作品を書かなければ、新時代に置き去られると気のついた珍しい作家であった。彼は、幕末からの代表的な新知識、西洋事情通であった福沢諭吉中村正直などの、ヨーロッパ文化の紹介本を題材として、明治三年から『西洋道中膝栗毛』(主として諭吉の『世界国尽[くにづくし]』『西洋事情』『西洋旅案内』による)を書いて、新しい形式の戯作として大いに人気を得た。その『西洋道中膝栗毛』の収入が前記のように、一編について十両であったのである。この本がよく売れたので、後の巻の作料は一編二十円位になったが、それでも生活は不安定であった。江戸時代からの戯作者たちの生活は極めて不安定で、窮迫したものであった。
魯文の弟子であった野崎左文は書いている。「明治七、八年頃までは戯作者に取っての飢饉年で、地本問屋からの註文もなく、偶々[たまたま]合巻物の類が出版されたところで、その読者の大部分を占める旧幕臣や御殿女中などは生活問題に迫られて身の振り方に惑うている混乱時代であるから、なかなか慰安として小説でも読もうという心の余裕がなく、町家の婦女子もその通りで売れ行きも頗る鈍っていたものと思われる。イヤこれはただ戯作者のみでは無くいわゆる江戸趣味の破壊と共にそれに基く所の総ての芸術は根底から覆されたのであった。」
魯文はそれらの戯作者の中にあって、新時代のシャレを応用した『西洋道中膝栗毛』や『胡瓜遣[きゆうりづかい]』(福沢の『窮理図解』をもじったもの)や『安愚楽鍋[あぐらなべ]』(スキヤキ屋食堂の新風俗を描いたもの)等を書いて、新時代に適応した唯一の流行作家であったか、やっぱり生活は不安定であった。彼は明治七年(一八七四年)、横浜に移転して、神奈川県庁の役人になった。その時の魯文の月給は二十円であった。魯文は毎月きまってきちんと入る二十円によって、はじめて安定した生活を営むことができたのである。
魯文が横浜に移った頃に、『横浜毎日新聞』が発行されていた。この新聞は日本で最初の日刊新聞で、発刊は明治三年の十二月である。魯文は県庁の教育関係の仕事をするかたわら、内緒でこの新聞の雑報の原稿を書いた。また彼は妻に新聞縦覧所というものを経営させ、自宅では売薬業をも行なった。
新聞は、はじめ雑誌と区別のつかない形のもので、明治四、五年に、急に幾種類も出て来た。『新聞雑誌』とか『日新真事誌』とか『郵便報知』などがこれである。この当時、一般の新聞は、半紙判のものを何枚か綴じたようなものであった。『横浜毎日』は洋紙一枚刷りで、広告を沢山とり入れ、広告と記事が相半ばし、広告によって経営が成立つようにした新しいやり方のものであった。
この新聞は明治四年頃の神奈川県令であった井関盛良の発意によって成ったもので、当時神奈川裁判所の通訳兼翻訳係であった子安峻と、鉛活字の日本における創始者本木昌造の門人陽其二が協力して作ったのである。記者には栗本鋤雲[くりもとじょうん]、島田三郎らの、当時のもっとも有能な評論家たちが参加した。
魯文はこの新聞に助力することによって、新聞というものの働きや構造を理解し、自分の文筆をもって新聞の世界に参加する決心をした。即ち、魯文のこの時の決心は、今までの出版屋に本の原稿を渡して収入を得る、という文学者に特有の生活よりも、新しく起った新聞の中の一つの働きとして作家が生きることになったキッカケであり、その後多くの戯作者が新聞に参加することによって生活する形式を作り出したのであった。
魯文は、翌明治八年(一八七五年)磯部屋という出版屋の出資を得て『仮名読新聞』というのを横浜から発刊し、その主筆となった。このとき彼が主筆として得た月給は四十円であった。この新聞は翌年東京へ移った。
『読売新聞』や『平仮名絵入新聞』(後の『東京絵入新聞』)ができたのもこの頃であって、高畠藍泉[たかばたけらんせん](三世柳亭種彦)、染崎延房[そめざきのぶふさ](二世為永春水)、前田香雪などの戯作家の文士がこれらの新聞に関係した。彼らの書いたものは、初め雑報即ち社会面の記事であったが、彼らはそのなかの興味深い事件を物語り化し、何日もに渡って連載した。それは「続きもの」と呼ばれていて、本当のニュースをいくらか作り話化したものであった。明治八、九年頃からこの「続きもの」に、二、三回続くものや十回も続くものが出て、読者に面白がられると、それに挿絵を入れ、次第に物語りとしての形をととのえて行った。明治十一年の八月、「金之助の説話[はなし]」という続きものが、『東京絵入新聞』に出た。これは署名なしの原稿であり、この新聞の署名人前田香雪の作と思われていた。しかし、それは、柳田泉[やなぎだいずみ]氏の推定によると、この新聞にいた二世春水染崎延房の筆であるらしい。「金之助の説話」はその当時起った小事件で、道具屋の息子の金之助というのが芸者に狂って金を使い込み、かつ悪者にだまされて自殺を企てるが、別な芸者に救われて大阪に行き、身を立てる、という話である。この話が「続きもの」として大変読者に受け、その後に何種類かの焼き直し本が出版された。そしてこの頃から後、「続きもの」は、積極的に小説という意識をもって書かれることとなり、新聞小説がそれらの戯作者系統の作家によって書かれるようになった。
このような過程を経て江戸時代の戯作形式は新聞小説として復活した。戯作者とその弟子たちは新聞記者になり、才能のないものは雑報を書き、才能のあるものは社に籍をおいて専ら小説を書くようになったのである。
社会面記事から小説を作るという順序は元禄時代(一六九〇年頃)の前後に近松門左衛門井原西鶴が心中事件や火事などの社会現象に取材して、多少ニュースの意味を含めながら物語りを書き、それから後に小説や浄瑠璃が発達した事情とも相似的なものと言うことができるだろう。
明治十年前後には、一流の新聞の発行部数は一万部位であった。そして新聞記者の収入は、編輯長級で七十円から百円位、平記者は十五円から二十円位であった。それ以下の探訪と言った外務記者は七円から十円位の俸給であった。魯文は『仮名読』の後に『今日新聞』というものの主筆になったが、その時の俸給は七十円であった。魯文はその月給の外に、明治になってからもまだ引き札(ビラ)の文案を書いて相当の収入があった。またその当時の文士たちは、時々書画会というのを催した。それは書や即席画の頒布会であって、その書や画を手に入れたいもの、または文士や画家の顔を見たいものがかなり集まったので、これが相当の収入になったから、魯文は、平均して月給の倍、即ち約百四、五十円の収入があったと言われる。
文士や小説家になろうとするものは、この時期には、これらの戯作者の下について新聞記者になり、雑報や短文などを書いて、才能を認められると、やがて新聞小説を書いて作家として認められる、というのが順序であった。饗庭篁村[あえばこうそん]は、はじめ文撰工として『読売新聞』に入ったが、前記の高畠藍泉がその新聞の記者になった頃から、藍泉について修業して、後には尾崎紅葉がこの新聞に入るまで『読売』の代表的な小説家となった。また斎藤緑雨は、明治十八年頃『今日新聞』にいた仮名垣魯文の弟子になり、魯文の指導を受けてのちに作家となった。