「サマーセット・モーム『雨』 - 村松友視」文春文庫 青春の一冊 から

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「サマーセット・モーム『雨』 - 村松友視」文春文庫 青春の一冊 から

青春時代と言われるような時期を、私はほとんど本を読まずにすごしてしまった。少しは本でも読めばいいのに.....親戚の叔母などのそんな言葉を遠くに聞きながら、ただ漠然たる時の流れに身をゆだねていたと言ったらよいのだろうか。本を読まずに何をしていたのかと自問してみても、あざやかな答えは生じてこない。ロカビリー喫茶へ通ったといっても、そこへ入り浸り切るわけではなかったし、クラブ活動もすぐに飽きて夏休みを過ぎると退部した。映画といっても読書と互角に張り合う作品ではなく、日活アクションや東映チャンバラ、それに東宝の若大将や大映の怪猫ものからプレスリー映画.....とにかく、大人に対して堂々と答えることのできる世界ではなかった。
こんな青春時代になってしまった理由を、今になって思い巡らしてみるならば、〈母〉という存在のせいではないかという気がする。生前に父が亡くなり、二十歳だった母は私を村松家へ残して他家へ嫁いだ。そして、私は父と母が両方とも死んでいなくなったと言い聞かされて、祖母の手で育てられた。高校を卒業したら実の母が生きていることを知らせよう.....育ての父母たる祖父と祖母は、そんなふうに思い決めていたようだった。実際、私は高校三年生まで、父母がともにこの世にいないということを疑わなかった。
高校三年の終りが近づいた頃、祖母は父の位牌を飾った仏壇に灯明をあげ、鉦をチーンと鳴らしたあと、火鉢の前へ私を坐らせた。灰均[な]らしで波形を描いては消すことをくり返したあげく、祖母はようやく私の母の生存を告げた。このとき私は、母の生存という事実に対するショックもさることながら、この打明け話にどう反応したらいいのかを考えあぐねたものだった。もし、私が額面通りにおどろきを表わせば、私を十八年も子供代りに育てた祖母の立場はいったいどこへ行ってしまうのか.....それが、悩みの芯だった。しかし、あまりおどろきを表さなさすぎた場合、祖母は私が誰かからすでに真実を聞かされていたのではないかと疑うだろう。母の生存を私に告白する一世一代の芝居を、ある意味で楽しみに生きていたにちがいないのだ。あれやこれやを考えた私には、死んだと思っていた母親が生きているという厳粛な事実が、爪のかからない宙ぶらりんな世界となってしまったのだ。
そのときが十八歳.....それからの数年というもの、私は躯の中が空っぽになったような時を過ごした。それがつまり、私の青春時代という季節だった。本を読むといった余裕などなかった、と言えばきれいごとすぎるだろう。本など読んでその問題の中心へ立ち向うのに怯えたにすぎず、要は母の生存を真正面から受け止めることからにげていたにちがいない。
そんなわけで、書物に関わることのない青春時代をおくった私にとって、どういうわけか気になった作品があり、それがサマーセット・モームの『雨』だった。これは、大学一年のときの英語の教材であり、部分的なひとくだりを今でも暗記している。They wear nothing but lava-lavaというのを「彼らはラバラバ以外に何も身につけていなかった」と立って訳したのを憶えているのだ。ラバラバとは、東南アジアの原住民の腰だけを覆うような布のことであるはずだ。そんなふうに、自分が指さされたり、アンチョコで調べたりした箇所は記憶に残っているものの、モームの『雨』という作品の全容はまるで知らなかった。つまり、作品の終わりまで辿り着かぬうちに、その先生の授業は終ってしまったのである。
ところが、あるてき叔父の家へ行って本棚をながめると、新潮社のサマーセット・モーム全集が列[なら]んでいて、私は『雨』について叔父と喋り合ったりした。叔父は英文科出身だし、新聞記者の大人びたダンディズムからも、モームの作品を好んでいるようだった。モームが来日したさいの講演にはもちろん出かけたし、なぜか「モーム先生」と呼んでいるくらいのファンだった。その叔父とモームの話をするとき、まさかモームが学校の教材だったとは言えなかった。叔父は私が『雨』のディテールを知っていることに大いに気をよくし話はかなり弾んだが、私にはうしろめたさが残った。そのうしろめたさが、私にサマーセット・モームの『雨』という作品をこびりつかせたのだった。
そして、風が変わり季節が変わり、私は「青春の一冊」なんぞという遠い思い出を書く中年となった。そんなとき、カミュドストエフスキーサルトル、ヘッセ.....あるいはもっと年少のロマンとしてマルタン・デュ・ガールやロマン・ロラン、日本ならば太宰、芥川といった名前を口走りたいのは山々ながら、どうしても嘘くさい。では、サマーセット・モームに傾倒したかといえば、ただ英語の教材としての記憶だけのことだ。しかし、他にないとすればここでもモームの力を借りるしかない。かつての叔父とのカンニング的会話をまたまたくり返すのかという思いもあるが、これをきっかけにモームに凝ってみようかとの気分もある。『雨』をあらためて読んでみれは、とうてい二十歳[はたち]やそこらの若僧の立ち入ることのできるセンスの作品ではないのだ。
そこでいま、私はやっと青春の一冊に向かい合おうという構えが生じた。とにかく、この一冊からスタートしなければ埒[らち]があかない。そして、新潮社のサマーセット・モーム全集を手に入れようとしたらこれが絶版、仕方なく今はなき叔父の本棚からこれを引っ越させた。そして読み始めてみると、モームがきわめて屈折した作家世界で右往左往したタイプだということを痛感し、俺にはふさわしい愛読書と腑に落ちたりして、青春の二文字とはまるで別世界だ。しかし、こういう青春の後追いもないわけではないと、中年っぽい独り言を呟くのが関の山というあんばいで、どこまでいっても“青春”には爪がかからないという情けないありさまだ。
(平成元年九月)