「編者の事情 - 山田裕樹」集英社文庫 アンソロジー患者の事情 から

 

「編者の事情 - 山田裕樹」集英社文庫 アンソロジー患者の事情 から

人の人生を変える一冊、という本があるそうな。
私には、なかった。というより、人生変わったと思ったけれども別の本を読んだらまた変わってしまい、結局、なにがどうなったのかわからんうちに、馬齢を重ねてしまった、というのが正しいかもしれない。
もっとささいなものを変えてしまった作品は、確かにいくつか存在した。
たとえば、渡辺淳一「薔薇連想」である。
高校生の時にこの短編を読んで衝撃を受けた。渡辺先生の文学的な創作意図がどうであったかはさておき、私にとってはホラー小説以外の何ものでもなかった。
ネタばらしをしてしまえば、梅毒という性病に感染した女性が、そのある段階で脇腹に現れる薔薇疹、という症状に美しさを感じて、寄ってくる男たちに移して回る、という恐るべき作品であった。
女性は、こわい。
梅毒そのものついて、正しい知識があったわけではない。ただ、戦国時代の武将たちの間で流行し、鼻が欠けたり指が取れたりしてやがて死に至る病気、という程度で、ひたすら「怖い怖い病気」であった。
そもそも、梅毒は、鉄砲とともにポルトガル人が種子島に持ちこんだという説があった。鉄砲が西日本でうろうろしている間に梅毒は東北地方にまで行った、当時の俗説ではそうなっていた。梅毒のほうが拡[ひろ]まる速度が速かったのは、忍者とくノいちのせいだろう、というのは俗説ではなく、白土三平の忍者漫画を読み過ぎた私の妄想である。
現在では、梅毒は重篤な病気ではなく、また鉄砲を日本に伝えたのは、王直[おうちよく]という倭寇か偽倭寇の親分だったといわれている。
ともあれ、私の「純潔」を失うのが人並みよりも遅れて悲惨な青春時代をおくったのは、この作品のせいである。ま、今から思うにごく一部の人を除けば、青春時代などは、将来、社会に適応できるか、という不安におびえる悲惨な時代だったのではなかろうか。
いやいや、また前置きが長くなってしまった。
今回の『患者の事情』を編むに当たって「医学もの」を、という集英社文庫編集部の意向を頭の片隅でひねり回しているうちに、この渡辺ホラー作品を思いだしてしまい、これをトリにする、と決めてしまった。すると、病気とか医者とか看護師とか手術とか誤診とかではなく、ドクターXだのドクター・ヘリとかではさらになく「患者」をどーんと中心に持ってくればよかろう、といういささか不純な動機から、このアンソロジーの収録作品は選出された、というわけです。
さて、この雑文を書くために、ゲラを読み直していたら、またしても大切な作品を欠落させてしまったことに気がついて愕然とした。
星新一ショートショートである。
この作品が冒頭に入っていれば、全体が締まっていたはずなのである。
それは「殺し屋ですのよ」という初期の有名な作品である。
六十年くらい前に書かれた有名すぎる作品なので、ネタばれ承知で、ストーリーを紹介する。
社会的に地位の高い初老の男に「殺し屋」を名のる女性が現れ、彼の敵を殺してさしあげる、と言う、あいつが死んだらいいな、と思っていた男は依頼に応じ、しばらく経ってから敵の男は「病死」する。実は、その女性は、殺し屋ではなく大病院の女性看護師。カルテから末期かんの患者の存在を知り、その政敵のところへ行って取引を申しでたのである。
とまあ、こういう作品だが、実にエスプリのきいたテーマを簡潔な文体で書かれている。
そして、この作品には、「患者の事情なんかどうでもいいもんね」という深いテーマが隠されている。
「患者の事情など知らんもんね」で始めて、「患者の事情」そのものの渡辺作品で締めるのが、私のアンソロジーの造り方だったことまで思いだしてしまった。
いつもながら、いい考えというものは、手遅れになってから、思いつくものなのである。