「漱石夫人は占い好き - 半藤末利子」中川翔子編にゃんそろじー から

 

漱石夫人は占い好き - 半藤末利子」中川翔子編にゃんそろじー から

迷信というか、占い好きの話となれば、これはあまりにも有名になっているが、やっぱり猫の話からはじめなければならない。
吾輩は猫である』のモデルになった夏目家の名のない飼い猫は、最初は小説に書かれている通りのノラ公であった。毎朝、雨戸を繰るが早いか、家の中にニャンと飛び込んできて、漱石夫人の鏡子やお手伝いさんや子供たちの足にじゃれついたり引っかいたりする。鏡子に言わせれば、仔猫のくせにハナから図々しかったそうである。子供たちが引っかかれて泣き出すたびに、鏡子はそやつをつまみ出すのだが、いつの間にか泥足のままお櫃[ひつ]の上にちゃっかり座っていたりする。いっそ誰かに頼んで遠くに捨ててきて貰おうかと思案しているうちに、
「そんなに家に入ってくるのなら、この家が気に入っているのだろうから、飼ってやればいいじゃないか」
漱石の一言があった。それからはひとまず表に追い出すことだけは止めたものの猫嫌いの鏡子は悪戯が過ぎるとそやつを物差しでバシッとひっぱたいたり、御飯を抜いたりして罰を与えていた。
ところがある日、出入りのあんま師が膝にすり寄ってくるそやつを抱き上げて、しげしげと調べたあげく、
「奥様、奥様、この猫は足の爪の先まで黒うございますから、珍しい福猫でございますよ。飼っておおきになるとお家が繁盛いたします」
と宣[のたも]うた。福猫と聞くや鏡子は、
「あら嬉し。福が向こうから飛び込んできてくれたとは」
と、即座にそれまでの虐待を止め、掌を返したようにそやつめに好待遇を与えることにした。たとえば随筆にあるように、鰹節をふりかけた御飯に昇格したようである。
こやつをモデルにして初めて書いた長編小説で漱石はいっぺんに文名を馳[は]せたのであるから、まさしくこやつは福猫だったのであろう。好待遇をうけつつ千駄木・西片町・早稲田と居を移して約四年間飼われたのちに、こやつは明治四十一年に名もなきまま死んだ。その時漱石は、
「辱知猫義久[じよくちねこのぎひさし]く病気の処、療養不相叶[あいかなわず]、昨夜いつの間にか裏の物置のヘツツイの上にて逝去致候。埋葬の義は車屋にたのみ箱詰にて裏の庭先にて執行仕候[とりおこないつかまつりそうろう]。但[ただし]主人『三四郎』執筆中につき御会葬には及び不申候[もうさずそうろう]」
と、懇意の人々にわざわざ猫の死亡通知を出している。そして死骸を埋めた所には、猫の光る目を稲妻にたとえた 
「此の下に稲妻起る宵あらん」
という句を書いた墓標を立てている。亡くなった九月十三日には毎年弟子たちを集め猫の法事を営んでいる。鏡子のみならず漱石もまた、このノラを福猫と思い、深く感謝していたのであろうか。そして漱石はすでに物故していたが、猫の十三回忌には、鏡子は猫を埋めた場所に父の松岡譲が、奈良の古塔に則[のつと]つて設計した立派な九重の石塔を建立している。いまも早稲田の漱石公園にそれは立っている。ただし米軍の空爆を受けたので(一九四四年)、刻まれていた模様も消えて、単なる横に細長い九つの石ころの積み重ねと化してしまったが。そして福猫が死んだ後も、足の爪の黒い猫を調達してきては、鏡子は欲一心で終生嫌いな猫を飼い続けたのである。

明治四十四年冬の、病床から鏡子に出した漱石の楽しい手紙がある。
「拝啓 本日回診の時病〔院〕長平山金三先生と左の通り談話仕候間[つかまつりそうろうあいだ]御参考のため御報告申上候。
旦那様『もう腹で呼吸をしても差支ないでせうか』
病院長『もう差支ありません』
旦『では少し位声を出して、-たとへば謡[うたい]などを謡っても危険はありますまいか』
院長『もう可[い]いでせう。少し習[な]らして御覧なさい』
旦『毎日三十分とか一時間位づつ遣つても危険はないですね』
院長『ないと思ひます。もし危険があるとすれば、謡位やめたつて矢張危険は来るのですから、癒[なお]る以上は其位の事は遣つても構はないと云はなければならません」
旦『さうですか。難有[ありがとう]』
右談話の正確なる事は看護婦町井いし子嬢の堅く保証するところに候。してみると、無暗[むやみ]に天狗と森成大家ばかりを信用されては、亭主程可哀想なものは又とあるまじき悲運に陥る次第、何卒[なにとぞ]此手紙届き次第御改心の上、万事夫に都合よき様御取計被下度候[おとりはからいくだされたくそうろう]、敬具
二月十日午後四時 町井いし子立会の上にて認[したた]む
奥様へ       
夏目金之助
漱石のこの手紙を読むたびに、漱石がいかに鏡子を愛していたかを痛感させられ、私までが嬉しくなってくる。前年の八月に漱石修善寺で大吐血をし九死に一生を得た。ようやく小康を得て十月には無事帰京し、内幸町の胃腸病院に病後の療養もあって入院するのであるが、経過もよくそろそろ退院の話が持ち上がるほど回復したある日、漱石が運動のために謡の稽古がしたいと言い出したのである。対して鏡子は、
「そんなお腹に力を入れるようなことをしてはまだ危ないから」
と猛反対する。
「では、院長に訊いてみる」
漱石が頑張り、その結果、右の報告の手紙を病院から自宅へ送った、というわけである。
森成大家とは主治医・森成麟造氏であり、天狗とは当時鏡子が信仰していた易者のことである。この大吐血の前日、修善寺漱石に付き添っていた鏡子はいても立ってもいられず、病状をつぶさに書いて、
「どうか易を立ててみた上で祈祷して下さい」
と東京の天狗に手紙を出した。すると天狗から、“とても悪い卦[け]が出た。いわば身体に弾丸が当って爆発したような状態である。自分はこれから斎戒沐浴[さいかいもくよく]して三十七日間の祈祷に入るから、一週間ごとに容態を知らせて”という返事が寄せられる。
鏡子と天狗の間にはこうして手紙の往復が続いた。その間に漱石はまさに爆発した状態になったものの奇跡的に命をとりとめ、その後はいい具合に病人は快方に向かった。鏡子は漸[ようやく]くホッと一息ついた。すると留守宅の子供達のことが頻[しき]りと気になり始め一度一人で帰宅しようとした。がしかし「今お前に行かれては困る」と漱石にせがまれて、鏡子は結局漱石と共に帰京した。漱石は帰京後自宅に帰らず、そのまま病院に入院し、鏡子は早速に天狗に礼に行く。と、天狗から面白い話を聞かされる。

ちょうど鏡子の最初の手紙を受け取る二、三日前に、どこからともなく天狗の家に黒猫が入ってきて住みついてしまった。しかし、これから祈祷を始めようというその日に、猫は姿を消した。ところがそれから一カ月以上も経って、祈祷が満願に近づいたある日のこと、その猫がひょっこり帰ってきたと思うと、いきなり血を吐いて死んでしまったというのである。
何だか怪談めいた話ではあるが、その猫が夫の身代わりになってくれたように思えて、それに漱石と猫との浅からぬ因縁を考えてみると、鏡子はひたすら黒猫と天狗に感謝するほかはなくなった。ひょっとして書簡の往復で事態を熟知していた天狗の作り話ではなかったろうかなどと、露疑わぬところが鏡子の鏡子たる所以である。が、この場合、天狗の祈祷のお蔭で漱石が一命をとりとめたと鏡子が信じてしまったのは、私にも至極当然のことのように思われる。恐らくその話を聞かされた漱石も、福猫のときと同様に、心のなかでひそかに深謝したのではあるまいか。それが証拠に漱石は、鏡子の言いつけに逆らうことなく、天狗の選びだした吉日の二月二十六日にその胃腸病院から退院して自宅に戻っているのであるから・・・。

鏡子の話によると、もともとはそれほど占い好きの方ではなかったそうな。が、漱石の神経衰弱(一種の鬱病)の発作があまりに凄まじかったのに、漱石本人にはその自覚がまったくない。診断を仰ぐべくその人を無理やりに医師のもとに行かせるわけにもいかず、ほとほと困り抜いていきおい神仏にお縋[すが]りするしかなく、以来、物事全般を運命的に観ずるようになってしまったのだ、と鏡子自らは言っている。
漱石神経症が極度にひどかった折りに、鏡子がある易者に診てもらったところ、
「この人は先祖の毒を背負っているから毒掃丸を飲ませなさい」
と言われた。そこで金槌で粉々に砕いた毒掃丸を胃薬に混ぜてオブラートに包んで、時間がくると家族の誰かが水と一緒に書斎へ運ぶのだが、母の筆子(漱石の長女)は自分の番のときには漱石にバレはしないかとビクビクしながら運んだと言っていた。
また、あるとき鏡子は早稲田にある穴八幡神社から虫封じのお札を貰い受けてきた。これは本来は夜泣きをしたりひきつけを起こしたりする癇の強い赤ん坊に効くとされているお札である。それを鏡子は漱石に用いようというのである。これも易者のご託宣に従ってのことであったろう。漱石が外出するのを見すまして、それッとばかりに玄関の扉の真上の壁に貰ってきたお札を当て、その上からトントンと五寸釘を打ちつける。毎日少しずつトントンとやって五寸釘が全部打ち込まれれば癇の虫が封じられるというのである。大方トントンという音でも聞きつけ妙に思ったのか、どうも家人の近頃の様子がおかしいと感づいてか、ある日、鏡子と筆子とがトントンを開始した途端、たったいま送り出したばかりの漱石が血相を変えて舞い戻ってきた。
「なんだッ、これは」
と凄まじい剣幕でそのお札を毟[むし]りとり、ビリビリに破いてさらに足蹴にして、ゴミ箱に捨ててしまった。漱石にこっぴどくどやされて震え上がったけれども、それよりも鏡子と筆子は神様から戴いてきたお札をそんなに粗末に扱っては罰が当るのではないかと、それがむしろ気になって冷や冷やしたというのである。

幼い私が訪れるようになった頃には、祖母は池上の高台に新居を建てて住んでいた。坂の頂きに北に向けて冠木門があり、その左手に即[すなわ]ち東北の角に大きなお稲荷さんが家屋に向けて建てられていた。多分鏡子がまた、どこかの占い師のお告げに従って建てたものであろう。退院の日取りに関しては天狗の言いつけに背かなかった漱石も、屋敷内にお稲荷さんを建てるとは、と泉下で仰天したことだろう。漱石が生きていたら、このお稲荷さんは絶対に存在していなかったに違いない。
幼い私には屋敷内に赤い鳥居のある神社が祀[まつ]ってあるなんて、とてつもなくすごいことのように思えて、
「おばあちゃまのお家のお庭にはお宮があるのよ」
と幼稚園の友達だったかに誇らしげに吹聴した記憶がある。私にとっては、祖母の家を訪ねると、そこはイの一番に行かずにはいられない場所となった。大人たちの会話に飽き飽きして茶の間を抜け出し庭に出て赤い鳥居をくぐる。両側に座っている赤い口をした白いお狐さんを見上げてから、少し怖いような厳かな心持ちで、夏でもひんやりとした薄暗い社殿の中にそっと足を踏み入れる。不気味だが魅惑的なひとときであった。
お稲荷さんだけではなく、鏡子の家そのものが私には格好な遊び場であった。南傾斜地を利用して建てられた家は、二階建てなのだが、五、六段の短い階段があちこちについていて、四階建てのようになっている。部屋数だけでも十五くらいあったし、土地は一千坪は優にあったそうだし、その頃には三、四匹の猫があちこちにたむろしていたから、家の中も外も子供らが探検するにはもってこいであった。これで同じ年頃の従姉妹でもいて一緒に遊べたら申し分なかったが、いかんせん大人ばかりで、その大人達に相手にして貰えなくなると時間の費しように困り果てたのであるが・・・。
祖母以外の大人たちのこの稲荷に対する反応は、
「おばあちゃまも好きねえ」
と母や叔母が話していたのを聞いたことがあるが、むしろ冷やかと言おうか、何もそこまでしなくても、という感じであった。どうも母はそんなにまでする祖母をお弟子さんや漱石好きの人々に対して、恥しいと感じていたようである。「一緒に行って」とせがんでも、「一人でいらっしゃい」と母の返事は素気なかったし、母が赤い鳥居をくぐったり、社殿に手を合わせたりするのを、私は見たことがない。

後年大人になってから鏡子の家を訪れたとき、鏡子の家を切り盛りしていた栄子叔母(三女、生涯独身を通し、祖母が亡くなるまで一緒に暮らした)が、
「お稲荷さんは閉じたのよ。卵屋さんに『お狐さんは悪戯をするから止めなさい』と言われたの」
と言ったことがある。叔母によれば、外側から扉に木を打ちつけて開かないようにしたという。それまでは年取った祖母の代わりに、叔母が月に二回ちゃんと油揚げを供えて定期的にお祭りをするのを怠ったことがなかったと言っていた。
卵屋さんとは字義どおり卵を売りにくるおばあさんなのだが、八卦をみるので卵を買うたびに運勢をみてもらったり、相談事をしていたらしい。この頃はもっぱら卵屋さん専門だったようだ。冠木門が壊れて新しい門に建て直した時も、
「卵屋さんに聞いて壊す時も建てる時も良い日にやったから大丈夫よ」
と叔母は言っていた
少し遡って私が小学生の頃には、肩凝り性の鏡子の治療にくる温灸のおじさんと呼ばれていた温灸師が一時その役を担っていた。家族全員が順繰りにおじさんの熱い手を体内に当てて貰って治療をし、終わると、白いあごひげを蓄えたおじさんは、あそこの家相がいいのわるいのと相談に乗りつつ、家族と打ちとけ合って食事を共にしていた。
十年ほど前になるが、鎌倉の知人の法事に出席した際に、列席していた黒い法衣[ほうえ]を着た山伏のような怪しげなる坊さんに、私は引き合わされたことがある。すると私が生まれて初めて会ったその坊さんが、
「栄子さんも愛子さん(四女)も亡くなりなさったね」
などとひどく親しげに叔母たちの名を口にし、
「昔はよくあんたのおばあちゃまに呼ばれて池上に行ったもんさ」
と言って私を驚かせた。その坊さんの雰囲気から、多分易を立てて貰ったり、祈祷をして貰っていた人なのだろうなと察したけれど、鏡子の家にはこんな人たちが入れ替わり立ち替わり出入りしていたようなのである。
勿論、外出が困難でない頃には鏡子自らあの人の易は当ると聞くと、その占い師まで億劫[おつくう]がらずに出掛けていった。母などもお供であちこちのお寺や神社にお参りに行っていたという。
「おばあちゃまったら、鎌倉の銭洗い弁天に行っては、玉のお金やらお札さらをザルに入れて、そりゃ熱心に池の中でざぶざぶ揺すって洗っていたわよ」
と母が言っていた。何でもそうするとお金が増えるという言い伝えがあるとか。
しかし、実際には夏目家の財産は減り続けていた。祖母の晩年に兄と一緒に訪れたりすると、男手があって丁度いい塩梅[あんばい]だとばかりに、鏡子は、
「ちょっと手伝っておくれ」
と兄に納戸や物置から大きな包みを取り出させて、はたきで埃[ほこり]を払わせていた。大方金を得たいがためにまた何かお宝を手離すのだろうなという察しは兄にも私にもすぐについた。

そんな風なときには、孫たちはきまって祖母の部屋で祖母の隣に床を延べて寝ることを常とした。祖母は宵っぱりの朝寝坊で、若い頃にはそれが漱石の悩みの種でもなあったようだ。漱石存命中は鏡子は毎夜ひとしきり小説に読み耽ってから寝るのを習慣としていた。テレビもラジオもない明治時代のことだから、大衆小説を読むことが大きな楽しみの一つでもあったのだろう。鏡子は新聞の連載小説をとにかく毎晩読みたいばかりに、当時の新聞をほぼ全紙購読していた。そして小説を読み読み枕元に菓子を置いて一人でむしゃむしゃと食べていたという。
私が時々泊りに行っていた頃(七十代後半から八十代)には、鏡子は短く太い丸太のような身体を布団にごろりと横たえるや、すぐ腹這いになってひとりトランプ、それも鏡子流のトランプ占いに興じるのであった。枕をどけて、その位置にカードをずらりと並べる。伏せて並べたカードが鏡子の思い通りに、すべて見事に開けば運勢がいいとか願いが叶うといったものらしいのだが、開かないと何回でもカードを切り、配り直して、開くまで繰り返す。寝る前の小一時間は頭を鎌首のようにもたげたまま肥えた身体を肘で支えっ放しにしてトランプに夢中になっていた。若いときはこの姿勢で小説に読み耽っていたのであろうから鍛えてはいるのだろうが、それにしても首や腹や胸や肘がよく痛くも苦しくもならないものだと、私は感心して眺めていたものである。
隣から覗き込んでいると、随分とズルやインチキをやっている。でも開かないときは開かないのである。すると、
「ああどうしても開かないよ。道理で今日はよくなかったよ」
と深い溜息をついて心からの落胆を示してから、鏡子は漸[ようや]く身体を横にするのであった。
代々跡を継いだ足の爪の黒い猫もお稲荷さんも八卦見も銭洗い弁天もトランプ占いも、その時々の鏡子の心を満たしたのであろうが、夏目家には大きな御利益はもたらさなかった。漱石という金のなる木は既になくなって、当時は三十年で切れたから著作権もとうにない。要するに鏡子には収入源がなかったのである。そのことに早く気づいてザクザクとお金が入っていた頃から浪費を慎んで、しこたま貯め込んでおくとか、先々を考えてお金の運用をしていれば、晩年金に窮することもなく、占いに精出す必要もなかったろうに、と思われる向きもあるかもしれない。
しかし、鏡子は計画性とは無縁の人であり、もともと貯蓄や金の運用などは大の苦手ときている。贅沢三昧な日々を暮した。そして頼まれれば惜しげもなく、門下生たちに大金を貸してやる。また頼まれなくとも気前よくパーッと大盤振舞いすることが鏡子は大好きであった。そんな人のいい鏡子を利用して、食事を奢らせるなどは朝飯前。漱石が亡くなってからも宿屋代わりに長期に夏目の家に寝泊まりしたり、高級な呉服や洋服や靴を買わせたりした弟子もいる。彼らもどうせ先生(漱石)の稼いだ金なのだから、と鏡子に感謝する気持ちなどさらさらなかったのかもしれない。で、大半の人は返金することなく(几帳面に勿論返金した弟子達もいる)、その金で家を建てたりした。なかには「もうとっくに時効だよ」と平然と言ってのける内田百閒のような弟子もいる。
けれども、生活が逆転して売り食いで凌[しの]いでいる鏡子に、昔の恩義を感じて訪ねてくる人は殆どいなかった。鏡子はまたそんな人たちの悪口を金輪際言わなかった。ただ一度だけ、
「あたしゃ死んだら化けて出てやる積もりだよ」
と冗談とも本気ともつかぬ口ぶりで言ったことがあった。
野放図に浪費しまくる鏡子に、「あの悪妻め!」と反感を抱く弟子たちがいたとしても無理からぬことであろう。だからと言ってしかし、彼等が鏡子から金をせしめても当然であるという理屈は通るまい。しかも返済しない人の大半が世間では“偉い人”として崇[あが]め奉[たてまつ]られいるのである。気風[きっぷ]の良さのみならず、人間の良さ、大きさに於いてもこれらの人々よりも鏡子の方が数段上であるように私には思われる。
鏡子が偉い、と私が思うのは、漱石没後も生存中と同じように漱石の一族に生活費の一部や学費などを渡し続けていたことである。その他の親戚縁者や困っている人や一人暮しの年寄などの面倒も実によく鏡子はみた人である。しかし、長生きをしたがために自分より若い甥が先に逝って、化けて出ることさえ叶わなかったことは、鏡子にとってはまことに不運なことであった。
こうして気がついてみたら晩年はかなり貧乏になっていて、往年の暮らしを維持することなんて出来なくなっていた。それでも占いは止められない、というよりも、だからこそ占いが益々必要だったのかも・・・。少なくとも亡くなる少し前までトランプを並べることに最高の楽しみを持っていたように思われてならない。
因[ちな]みに池上の敷地は鏡子が八十七歳で亡くなったときには二百五十坪にまで減っていた。