1/3「続・読む - 開高健」角川文庫 白いページ2 から

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1/3「続・読む - 開高健」角川文庫 白いページ2 から

子供の頃のことをふりかえってみると、腺病質でなくなったとか、偏食癖がなくなったとか、どこでも寝られるようになったとか、夜中に一人でトイレにいけるようになったとか、いろいろな変化が数えられるのだが、いっこうにあらたまらないこともまたいくつかある。そのうちの一つが読書癖である。本で夜ふかしをする癖は昔も今もまったく変ることがないし、枕もとに何か本が一冊以上ないことには不安でならないのもまったくおなじである。家にいるときもそうだし、旅館にいるときもそうである。東京にいるときもそうだし、外国にいるときもそうである。一昨年、一五〇日ほどサイゴンで暮したときは、読みものがなくなることを恐れて小倉百人一首を持っていったが、深夜に一枚一枚カードを繰って読んでいると、懐しさにしばしば胸をつかれて茫然となった。正月に明るい灯のしたに端座して朗々と読みあげていた叔父の声や、妹や従弟たちの歎声や、床の間の重箱の青貝と漆の荘厳な輝やきなどがいきいきとよみがえって、果てしがなかった。

大正八、九年頃の永井荷風のエッセイを読みかしてみると、例によって眼にふれるものことごとくに白眼を剥いて嘲罵をひりかけているのだが、花鳥風月と、師及び師と仰ぐ少数の人物にたいしてだけはまるで人が変ったような口調で讃仰を捧げている。それと、書物ならびに酒である。ひとり暮しに欠かせない無二の伴侶は書物と酒だとして讃美の言葉を書きつらねているのである。その無邪気なまでのうちこみかたのうちには孤独が氷雨のようにたちこめていて、いま読みかしてみてもうたれるものがある。じっさい、いま、ふいに書物という書物が嗜紙菌[ししきん]というような妙な菌に食われて消えるというようなことが起ったら、いったいどうなることか、見当のつけようもないので、ある意味では困ったことだと思うことがある。書物の好きかたのなかにはどうしても病気ではないかと思いたくなるような兆候もまざまざと見うけられるのである。ある書物を読んだがために認識や感性が変って人生が一変するという例は昔からしじゅうあるのだら、“覚悟”も必要なわけである。いつかの回に私自身の造語だけれど“字毒”といって文字には多量の毒が含まれることもあるということを書いたと思うのだが.....
こうして子供の頃から読みつづけてくると、いつのまにか、不思議な“プロの勘”といっていいものが身につくようになり、いちいち中身を読まなくても、本を手にとっただけで、何となくわかるようになってくる。手にしただけで何となく、これは読んだほうがよさそうだなとか、見かけは立派だが中身は意外につまらないのではないかとか、いろいろなことを一瞬のうちに感ずるものである。つまり本にも“匂い”があって、香水瓶の栓をとらないとわからないけれど、これはいつも栓をとった状態でそこにあるのだ。その匂いが第六感でヒクヒクと嗅ぎわけられるようになってくる。本は、だから、読むまえにまず嗅ぐものでもあるわけだ。

つぎに本は、読むまえに、見るものでもある。パラパラと頁を繰ったときに字の行列のぐあいを一瞥すると、かなりのことが見えるものである。つまり、頁は画でもあるのだ。それが読むまえにちょっと見えるようでないといけない。活字の字母が一箇ずつブラシですみずみまで磨きぬいてあるような、そういう字ばかりを植えごんであるような印象が一瞬、眼にとびこんでくるようだと、これはまずイケルと判断してよろしい。すぐれた頁というものは、読んでいると、にわかに活字がメキメキとたちあがってくる。そういう気配がする。それが感じられるし、眼に見える。また、すぐれた行や語にさしかかると、とつぜん頁のそこに白い窓がひらいて、林でできたばかりの風が流れこんできたり、陽の輝きのようなものが見えたりするものである。そのとき起る光景は人によってさまざまだが、書かれてある内容の光景がそのまま見えることもあり、まったく無関係の光景が出現することもある。ひょっとするとそれは私たちの“下意識”と呼ばれるものが顔を覗かせたのかもしれないが、いずれにせよ、何かがまざまざと目撃されるような本でないといけないのである。本は読まなくても何かが見え、読んでも何かが見える。見える本であること。そこである。