2/3「続・読む - 開高健」角川文庫 白いページ2 から

f:id:nprtheeconomistworld:20190812092303j:plain


 2/3「続・読む - 開高健」角川文庫 白いページ2 から

本の“匂い”のことについて考えると、いつも、いったいあれはどこからくるのだろうかと、不思議な気がする。著者が全力投球している場合、その球が空を切って飛んだあとにのこる谺[こだま]のようなものがその“匂い”なのだろうか。そこを完全に理解し、共感し、著者なみに挺身[ていしん]して本をつくった編集者や造本家の、ああでもない、こうでもないと選択に苦しんだ神経のふるえがそれなのだろうか。またはその人たちが雷にうたれるように啓示をうけて何かをまざまざと目撃し、一瞬で、コウダ!と決断を下した、その速度の軌跡がそれなのだろうか。さまざまことが口にだしていえそうだけれど、同時に、円周率のように、ついにわからないとつぶやくよりほかなさそうでもある。いちばん愉しいのは自分の嗅覚の正しかったことが読了後に判明したときで、室内にすわって現場調査にでかけないで犯人をいいあてる名探偵になったような気がしてくる。
全集や文庫版など、一定規格のサイズとデザインにおしこめられた本からは“匂い”で評価するよりは、家具や置物の一つとして評価すべき筋合いのものかと思われる。それはそれでいっこうにかまわないのであって、いい雰囲気の分泌される家具かそうでないかを感じとっていれば、またべつの愉しみもあるわけである。ちょっとした冒険家や、探鉱家や、探偵や、鑑定人のスリルを感じたいとなれば、やっぱり、新刊だろうと古本だろうと、単行本によるしかない。わが国には大・中・小、無数の出版社があり、なかにはいい本をだしていながら表現力に欠けるかで、つまらない、そぐわない装丁になっているところもある。こういう場合は“匂い”の第一撃が鼻にきにくいものだから、読んでみるよりほかないのだが、たまにオヤオヤと眼をこすりたくなるような名品に出会うと、わが未熟を恥じて謙虚にならされたり、世のなかはわからないものだと思いを深められたりする。

近頃の私は新聞の広告を見て新刊本を買う習慣がつき、新刊書店へでかける習慣を失った。いちいち本を見なくてもわかるという名人の心境に達したからではなく、憂鬱からである。バルザックのある作品に登場する人物はモンマルトルの丘にたってパリを見おろし、おれに征服されるのを待っている都だと感じこむのだが、昔、まだ若いとき、そしてまたまた気力のある日に広い新刊書店へ入っていくと、私はみずみずしい昂揚をおぼえることがあった。それはしいて短い言葉に濃縮してみると、ここにある本という本を読破してみせるゾ、いうことになるかもしれない。けれど、いまの私には、そういうけなげな稚気がどこをさぐっても指さきにふれてこない。新刊書店に入っていって無数の色と、字体と、著者名の羅列を見ると、オレが、オレがといっせいに口ぐちに叫ぶ声が大きな駅のようにこだましあい、ひびきあっていて、ただそれだけのように感じられ、いいようのない威迫と憂鬱をおぼえてしまうのである。だから、どうしてもしようがなくて新刊書店へいくときはめざす本のあるとおぼしき書棚のところへわき目もふらずにいって本をぬきだし、そのままソソクサと金を払ってでていくことにしている。

若いときはむしろ私には新刊書店よりも古本屋のほうが威迫と憂鬱で恐しかった。ことに老舗の大きな古本屋へいき、床から天井までギッシリと積みあげられた書物のそそりたつ崖肌を見あげ、これらの本がことごとく一度は誰かに読まれたことがあるのだと感ずると、いいようのない劣等感を抱かせられた。たたかうまえに敗走する兵士の挫折をおぼえさせられたものであった。けれど、いまではそれが逆になったようである。古本屋へいって、手垢や傷でくたくたになった書物の顔を眺めていると、懐しさともつかず、共感ともつかない、奇妙か親和をおぼえて、こころなごむのである。
近頃の古書店の多くは新刊本のゾッキ屋と呼んだほうがいいような軽躁[けいそう]さにみたされているけれど、それでも新刊書店よりははるかに私には長い時間を佇[たたず]んですごせる場所ではある。いずれもかつては軽薄にか、荘重にか、謙虚そのものにか、ケレン味たっぷりにか構えていた人物たちが現世にもみくちゃにされて傷だらけになってこういう倉庫じみた薄暗いなかに息をひそめて並んでいる。豪富をもたらしたかもしれないかつてのベストセラーも、著者とその老妻がお茶漬一杯を食べられただけかもしれないノン・ベストセラーも、ここでは同格である。古書店の店内に漂よう無言の権威蔑視のあの冷ややかか、くたびれた優しさの雰囲気が私は好きである。
こういう廃坑で名金を掘りだす愉しみてなると、これはちょっといいようのない、しみじみしたものである。あなたが下らないと思う本がもてはやされて夏のビールのように売れる風潮にもしガマンができなくなったら、古本屋へいくことです。血圧をさげるのに卓効があります。古本屋は、また、本の背を眺めているだけでみごとな風俗史、時代史、精神史を感じさせられる場所なのだから、ちょっと現在の苦悩を超越したくなったら、ぜひおいでになることをおすすめします。いい古本屋へいったらここにこそ人類永遠の無政府主義の理想の一片が具現されているといいたくなるほどです。