「バカカバー - 椎名誠」文春文庫 赤眼評論 から

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「バカカバー - 椎名誠」文春文庫 赤眼評論 から

日本人はカバー好きで、放っておくと何でもかんでもカバーんかけてしまうけれど、カバーをかけて意味のあるものとあまり意味のないものとあるような気がするのだ。
電話機のカバーなんていうのはその代表的なもので、あれはけっこうよく見かけるけれど何のためのカバーなのかいまだにどうもよくわからない。電話機が傷まないため、というようなことなのだろうかと思うがしかしあんなもの少々の傷がついたってどうってことないような気がする。まさか保温用ということもないだろうし、一番考えられるのは装飾用ということぐらいだけれどそうだとしたらおぞましい話だと思いますね。
このあいだびっくりしたのはダイヤルまでカバーのフタがついていて使わない時はスナップでプチンと止めるようになっているのだ。こういうのをデザインして売る方もどうかと思うけれど、ダイヤルまでカバーでフタをしてしまうヒトというのも思えば不思議な性格の人間といえるのではなかろうか。一度そういうのを使っている人に「あんたそんなに電話のダイヤルが大事ですか?!」と聞いてみたい。
そこまでダイヤルが大事だったら送受話器の「話し口」と「聞き口」のところにもスナップ付きのフタをつけるべきだと思うのだけれどこちらの方は全体をくるんだカバーだけであった。片手落ちではないか。しかし本当に電話機のカバーというのは、はっきりいって日本人のバカさかげんをムキダシにしてしまったものではないかと思いますね。
むかしテレビが出はじめた頃、どの家のテレビを見る時はあの緞帳をヒラヒラのついた劇場の緞帳のようなカバーがかけてあった。すなわちテレビを見る時はあの緞帳をヒラリとあけておごそかに見させていただく、という具合になっていたわけである。そうしてあれはやっぱり貴重品であるテレビのブラウン管を大切に保護するのと同時になんとなくテレビと映画館を一緒にした考えかた、というものから生みだされてきたもののような気がする。だからこの時カバーの思想はわりと正しかったような気がするのである。
しかしこの全面スダレ型の緞帳ふうカバーもやがてテレビが急速に普及するにつれてさすがに面倒くさくなってしまったのかいつの間にかテレビの上の部分を覆うだけのものになっていった。しかしそれでも緞帳ふうのスソのヒラヒラは短くなって残っており、テレビ画面の上にチラチラしていたのだ。そうして“躍進する日本人”はやがてこのテレビの天井の部分のカバーもいつしか取り払ってしまい、間もなくやみくもな高度成長時代に突入していったのである。
わたくしはしかし日本人がこのテレビのカバーを取り払っていく方向にすすんでいってくれて本当によかったと思うのである。もしあのままテレビの普及が急速にいかずマスプロマスセールスの商品とはならずに、一部の金持の
高級品というところにいつまでもウロウロしているとしたら、その後どっと出てきた冷蔵庫とかクーラーなどにもめったやたらとカバーをきせてしまったのではないかと思うのである。とくに冷蔵庫などはバカな主婦たちがヨロコンできらきらカバーをかけてしまったような気がする。あれは大きいからカバーのかけがいがあるからだ。
しかしいまぼくが一番イヤミに感じるカバーはゴルフのクラブのカバーである。あれはなぜかたいてい毛糸製でアタマにスキー帽のようなボンボンがついている。あのカバーを沢山つけたゴルフのクラブをこれみよがしに、つまり「オレなんかまだ若いけどわりとゴルフなんかよくやってんのよ、けっこうシングルだったりなんかしてさあ」なんていう暗黙の意図をあそこでかなり露骨にあらわにしているようで気に入らないのだ。しかしゴルフセットを玄関に置く、というのは本当はもっともっとさびしい日本の住宅事情をあらわにしていて恥ずかしいことのように思うのである。
しかしそれよりももっとムナシイのはクルマのビニールカバーでありますね、新車を買った時、座席や内装部分にビニールが張りめぐらされているけれど、あれをできるだけ破らずにいつまでもしずしずとカバーの上にすわって運転していく人々に戦後日本の心のまずしさはまだまだすっかりは払拭されていなあ、というひとつのシビアな現実をみてしまうのである。
やっぱりカバーは文化なり - ではないか、と思うのである。
電話機のカバーやドアのノブにくくりつけられている布のカバーを見ると、“機能美を覆う無知族”という気配があからさまであるし、本のカバーの上のコシマキの上にさらに書店のカバーをかぶせ、その上にナイロン製の個人用カバーをかぶせている本をみると、“うたたかの虚飾ニッポン”というようなコトバがチラチラしてくるのだ。
そうしてこのあいだついに見てしまったニッポンカバー文化の決定版は便所のトイレットペーパーのカバーであった。あれはなんというのであるか、はっきりした名前は知らないけれど、トイレットペーパーを切る金具のところにパッチワークふうの部厚い布カバーがかけられていたのだ。
「ああダメダメ、ここまでいってしまってはいけないよいけないよ......」と、わたしくはそのカバーつきトイレットペーパーの前でしばらくしみじみと考えこんでしまった。しかしもうこうなったらキンカクシのカバーからはじまってスリッパカバーからアイロンカバー、マホービンカバー、ゲタバコカバー、テーブルカバー、ネコカバーと、手あたりしだいにカバーをしていってしまう。という生活もひとつの新しい日本の道なのかもしれないなあ、とフト思ったのである。