(巻二十五)遺言のように砂吐く浅蜊かな(佐藤洋子)

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(巻二十五)遺言のように砂吐く浅蜊かな(佐藤洋子)

5月27日水曜日

気がつかないうちに銀杏の若葉は大きくなってしまった。

月に一度の検診に駅前クリニックへ行った。腎・泌尿器系の専門クリニックだから普段も込み合うということはないが今朝は私だけだった。

院内の開けられる窓や扉は開けられていて実に風通しがよく、明るい。

ビル風と云へど五月の風にして(横川満)

先月違和感を感じて、お願いして採血してもらったのだが、結果は“悪化は認められず”であった。不定愁訴

クリニックから薬局に回りいつもの薬をいただき、ついでに区役所から広報のあったマスク(50枚1800円)を買った。薬局も空いていてマスクを買いに来る人もポツポツであった。

混んでいれば半日かかるところを一時間弱で済ませて帰宅。

本日四千歩でした。

のどけさの先に果てある命かな(山本けんえい)

読書

「宿命について(後半抜書) - 福田恆存ちくま文庫 私の幸福論 から

《 そこで、私はみなさんに、いわゆる宿命論ではなく、宿命ということそのことについて、改めて考えなおしていただきたいとおもうのです。

宿命というのは、そんなに辛いものかどうか。みなさんは、そんなに宿命を嫌っているのかどうか。逆にいえば、それほどに自由を欲しているのかどうか。結論をさきにいうと、私たち人間は、自由を欲すると同程度に、自由のないことを、すなわち宿命的であることを欲しているものなのです。そのことと関連して、つぎのことも真理です。自由というのも、また程度問題で、あるひとにとって好ましい自由が、他のひとには持ち扱い不自由な重荷になることがあるのです。

さて、ひとはどういうふうに、またなにゆえに宿命を欲するか。この問いにたいして、私は二つの答えが与えられるとおもいます。第一は消極的なものであり、第二は積極的なものであります。

まず第一のものについて、お話しいたしましょう。いま申しましたように、自由というものは、なにかをなしたいという要求、なにかをなしうる能力、なにかをなさねばならぬ責任、この三つのものに支えられていなければなりません。『大学』という本のなかに「小人、閑居して、不善をなす」とありますが、それは「つまらぬ人間に暇を与えるとろくなことをしない」というほどの意味です。小人とは、いいかえれば自己の内部に激しい要求、豊かな能力、強い責任感をもたないひとのことです。ですから、そういうひとたちは、自由な暇が与えられても、なにをしていいかわからない。なにをする理由も、手がかりもない。したがって、つい、くだらぬことに手をだしやすいのです。》

を読んで頷いた。やたらに時間があるのでくだらないことを考えてしまうし、それが元で鬱々となる。

変な言い方だが、そのくだらぬ考えの中では死ぬことを考えているのが一番“楽”で“前向き”に思える。終わるという事への期待だろうか?

その時が来たら怖れ、嘆き、うろたえるのだが、死を実感しないうちは死は都合のよい逃場だ。

麗や野に死に真似の遊びして(中村苑子)

願い事-叶えてください。