「プライドの守り方 - 土屋賢二」文春文庫 無理難題が多すぎる から

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「プライドの守り方 - 土屋賢二」文春文庫 無理難題が多すぎる から

男はみんなプライドが高い。プライドを支えているのは、自分はそんじょそこらの男ではない、特別な男だ、という信念である。
だが「お前のどこが特別なのか」と聞かれると、多少でも特別そうなのは虫歯の位置ぐらいしかない。それに気づいたとき、苦悩が始まる。
若いころなら簡単だ。「年をとれば何とかなる。現に、年をとった男は例外なく〈ひとかどの男〉のようにふるまっている。まさか何もないのにそんな態度がとれるはずがない」と将来に期待して、当面は大人に反抗して特別な男のつもりになっていればいい。
だが、いざ年を取ってみると、心身が衰える以外、何の変化も起こっていないことに気づく。たんに頭が固くなって、自分には特別な価値があると勘違いしやすくなるだけだ。
だがこの思い込みを維持するのは困難だ。結婚十年後、結婚相手の真価が分かってきたころ、妻が見下すようになる。家の外では、不審者扱いされるか犬に吠えられる以外、だれも相手にしてくれない。こうなると、自分を特別な存在だと思い続けるのは難しい。
第一、自分に特別な価値があるという実感がない(謙虚すぎるのかもしれない)。むしろ容姿にも能力にも見るべきものがない。自分よりはるかに容姿や能力に恵まれた男はいぱっいいるのに、この自分は生まれたときから罰ゲームをやらされているようなものだ。九割の男がそう思う。
だが、男はこれでプライドを捨てることはない。ではどうやって自分のプライドを救っているのか。
【第一段階】なぜこんなふうに生まれついたのか、何かの間違いではないか。先祖か前世の悪行の報いだとしたら、因果応報システムが不条理すぎるのではないか。色々考えた挙げ句、もしかしたら神の特別な配慮で、不幸を強いられているのかもしれないと思う。過去の偉人は苦難の人生を送り、キリストやソクラテスのように処刑までされているではないか。ちやほやされる寵児が偉大であったためしがない(ちやほやされるというだけでロクな人物ではないと判断できる)。
だが、ここで気づく。偉大な人物は苦難の人生を送ったからではなく、人並み外れた能力があるゆえに偉大とされていることに。そして自分には見るべき能力が皆無だということに。
【第二段階】どんな個人もかけがえがないはずだ。かけがえのなさは能力や容姿には無関係だ。現に、どんなにできの悪い子どもも親は溺愛し、どんな駄犬も飼い主は可愛がり、ボロボロになった人形も宝物になる。能力も容姿も問題外なのだ。
だが、かけがえのない形見の万年筆と十把一からげの万年筆の違いは何か。かけがえがない物は例外なく愛着の対象になっている。かけがえがないものとして大切にされるには愛着の対象にならなくてはならない。だがこれこそ男には困難だ。愛着の対象になるには接触が必要だが、無理に接触しようとすればストーカー扱いされる。介護される立場になれば接触の機会は得られるが、ますます嫌われて殺される恐れもある。
【最終段階】だいたい、だれかに愛着をもっともらわないと無価値だというのは不合理すぎる。何物とも代替できない自分固有の価値が、他人まかせであっていいわけがない。他人から無視されようと、ゴミ扱いされようと、自分には無条件に価値がある。そう考える。第一、そう考えるしかプライドを救う道はない。この段階になると、もはやどんな扱いを受けてもプライドは揺るがない。
ただ、心の底に疑念が巣くうようになる。何のためにプライドを死守するのだろうか。だれにも認められないような「価値」に何の価値があるのだろうか。