「書評の条件 - 丸谷才一」ちくま文庫 快楽としての読書 から

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昭和八年から昭和五十年まで平野謙の書いた書評のうちの大部分を集めて成つたのが『新刊時評』(河出書房新社)である。そのうち昭和四十年代のものが半ばを越す。「週刊朝日」書評欄の筆者となつたからである。
このことは「完全な書評のプロ」になったことを意味する、と平野は長いあとがきのなかで言ふ。そして彼が代表的な文藝評論家であることは衆目の認めるところだから、つまりわれわれはこの本によつて、現在の日本の書評全体の水準を論ずることができよう。
欧米の書評とくらべて、日本の書評はまだまだ歴史が浅いため、ずいぶん軽んじられてゐる。時間と労力を要するわりに報酬はすくなく、しかも極端に短い書評文として仕上げなければならない。その悪条件を口実に使つて、書評者はいろいろと手を抜きがちなのだが、その点、平野の誠実な努力はほとんど瞠目に価するくらゐである。
たとえばソルジェニーツィンの『イワン・デニソビッチの一日』の書評で、江川卓訳と小笠原豊樹訳の一長一短を論じ、さらに、木村浩訳はまだ読んでゐないと書きつけるあたり、また、有吉佐和子の『香華』を三度(!)読んで、「率直にいって、三度目の今回は少々色あせてみえる」と記すあたり、感心するよりむしろ呆れてしまふ。かういふ、愚直とさへ形容したくなる態度は、三島由紀夫の「林房雄論」を評するに当つて、林の初期作品『獄中記』『勤王の心』『青年』『壮年』『四つの文学』の再読といふ、「評者として最低の義務」を果たせないため批評はできない、と謝つてしまふあたりに、最もあざやかに出てゐる。
が、もちろん平野の美徳は単なる誠実さだけではない。文学史的視野の広さ、作家論的な切込みの鋭さ、さらに小説鑑賞家としての多年の修練がこれに加はつて、おそらく、書評による昭和文学史としてはこれ以上のものは望めない本が出来あがつた。ことに伊藤整大江健三郎開高健佐藤春夫高見順谷崎潤一郎中村光夫松本清張など、彼が持続的に関心をいだいてゐる文学者の本の場合には、なほさら、さういふ気配が濃厚だらう。
しかし、何といつても一篇一篇の枚数が決定的に短いし、その悪条件を常に克服するほどの書評の藝は、わが文学ではまだ成熟してゐるわけではない。そのため、無難な紹介になつたり、よほど玄人つぽい読み方をしなければ呑み込みにくい批評になつたりしてゐることが、かなりあるのは残念なことだつた。『新刊時評』は、文藝時評の名手である平野の本であるだけに、じつにはつきりと、現代日本においては書評がまだ文藝時評の域に達してゐないことを示してゐる、といふべきであらう。
集中、最もすぐれてゐるのは中村光夫谷崎潤一郎論』『佐藤春夫論』の書評。この二冊についてだけでも、存分な枚数を与へたかつたと思ふ。