1/4「榎[えのき]物語 - 永井荷風」岩波文庫

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1/4「榎[えのき]物語 - 永井荷風岩波文庫

市外荏原郡世田ケ谷町に満行寺[まんぎようじ]という小さな寺がある。その寺に、今から三、四代前とやらの住職が寂滅[じやくめつ]の際、わしが死んでも五十年たった後でなくては、この文庫は開けてはならない、と遺言したとか言伝えられた堅固な姫路革[ひめじがわ]の篋[はこ]があった。
大正某年の某月が丁度その五十年になったので、その時の住持[じゆうじ]は錠前を打破[うちこわ]して篋をあけて見た。すると中には何やら細字[さいじ]でしたためた文書が一通収められてあって、次のようなことがかいてあったそうである。

愚僧儀一生涯の行状、懺悔のためその大略を此[ここ]に認[したた]め置候もの也。
愚僧儀はもと西国丸円[まるまる]藩の御家臣深沢重右衛門と申[もうし]候者の次男にて有之[これあり]候。
不束[ふつつか]ながら行末は儒者とも相なり家名を揚げたき心願にて有之候処、十五歳の春、父上は殿様御帰国の砌[みぎり]御供廻[おともまわり]仰付[おおせつ]けられそのまま御国詰[おくにづめ]になされ候に依り、愚僧は芝山内[しばさんない]青樹院と申す学寮の住職雲石殿、年来父上とは昵懇の間柄にて有之候まま、右の学寮に寄宿仕[つかまつ]り、従前通り江戸御屋敷御抱[おかかえ]の儒者松下先生につきて朱子学出精罷在[まかりあり]候間、月日たつにつれ自然出家の念願起り来り、十七歳の春剃髪致し、宗学修業専念に心懸[こころがけ]候間、寮主雲石殿も末頼母[たのも]しき者と思召[おぼしめ]され、殊の外深切[しんせつ]に御指南なし下され候処、やがて愚僧二十歳に相なり候頃より、ふと同僚の学僧に誘はれ、品川宿の妓楼[ぎろう]に遊び仏戒[ぶつかい]を破り候てより、とかく邪念に妨げられ、経文修業も追々おろそかに相なり、果は唯うかうかとのみ月日を送り申候。或夜いつもの如く品川宿よりの帰り途[みち]、連の者にもはぐれ、唯一人牛町の一筋道を大急ぎに歩み参候と思の外何処まで行き候ても同じやうなる街道にて海さへ見え申さず候故[ゆえ]、これはてつきり、狐のわるさなるべしと心付き足の向次第、唯[と]有る横道に曲り候処、いよいよ方角を失ひ、かつはまた夜も次第にふけ渡り、月も雲間に隠れ候故、聊[いささ]か途法に暮れ、路端[みちばた]の草の上に腰をおろし、一心に念仏致をり候処、突然彼方より女の泣声聞え来り候間弥ゝ[いよいよ]妖魔の仕業なるべしと、その場にうづくまり、歯の根も合はずふる[難漢字]へをり候に、やがて男の声も聞え、人の跫音[あしおと]次第に近づき来るにぞ、此方[こなた]は生きたる心地もなく繁りし草むらの間にもぐり込み、様子如何[いかに]と窺をり候処、一人の侍無理遣[や]りに年頃の娘を引連れ参り、隙を見て逃出さむとするを草の上に引据ゑ、最前よりいろいろ事の道理を分けて御意見申上候得[そうらえ]ども、御聞入れ無之候得者[これなくそうらえば]、是非なき次第に候間、このまま手足を縛りてなりとお屋敷へ連れ帰り、御不憫[ごふびん]ながら不義密通の訴[うつたえ]をなし申べしと、何やら申聞しをり候処へ、また一人の、侍息を切らして駈[かけ]来り、以前の侍に向ひ、今夜の事は貴殿より外には屋敷中誰一人知るものも無之[これなき]事に候なり。われら駈落者[かけおちもの]を捕へ候とて、さほど貴殿の御手柄になり候訳にてもあるまじく候間、何とぞ日頃の誼[よし]みにこのままお見逃し下されよと、袂[たもと]に縋[すが]り、地に額を擦り付けて頼み候様子なれど、以前の侍一向聞入れ申さず。貴殿に対しては恩も恨もなき身なれど、このお小夜殿[さよどの]は恩儀ある我が師の娘御[むすめご]なり。道ならぬ恋に迷ひ家中の者と手に手を取り駈落致したりとの噂、世に立ち候時は、師匠の御身分にもかかはり申べく候。今の中[うち]なれば拙者の外は誰一人知るものなきこそ幸[さいわい]なれ。このままそつと御帰宅なされ候はば、親御様も上部[うわべ]はとにかく、必[かならず]手ひどい折檻などはなされまじ。かくいふ中にも時刻移り候ては取返しの付かぬ一大事、疾[と]く疾く拙者と御一緒にお帰り遊ばされ候へと、泣沈む娘を引立て行かむとするにぞ、一人の侍今はこれまでなりと覚悟致し候様子にて、突[つ]と立上り、下手[したて]に出[い]でをれば空々[そらぞら]しきその意見、聞いてはをられぬ。ないない御嬢様に色文[いろぶみ]つけ、弾[はじ]かれたを無念に思ひ、よくも邪魔をしをつたな。かうなれば、刀にかけて娘御はやらぬ。覚悟しやれと、引抜く一刀。此方も心得たりと抜き放ち、二、三合切結[きりむす]ぶ中[うち]、以前の侍足を踏み滑べらせ路の片側なる崖の方[かた]へと落ち込む途端[とたん]裾[すそ]を払ひし早業に、一人は脚にても斬られ候や、しまつたと叫びてよろめきながら同じく後の崖に落ち、路傍[みちばた]に取残されしは、娘御ひとりとなり候処、この時手に手に、提灯持ちたる家中の侍とも覚しき数人駈け来り、娘御の姿を見候て、皆々驚く中[うち]にも安堵の体[てい]にて一人の男の背に娘御をかつぎ載せ、そのままもと来りし方へと立去り候一場の光景。愚僧は始より終まで、草むらの中にて見定め、夢に夢見る心持にて有之候。但し固[もと]より夢にては無之[これなき]事に候間、とかきする中、東の空白みかかり塒[ねぐら]を離るる鴉の声も聞え候ほどに、すこしは安心致し草むらの中より這出し、崖下へ落ち候二人の侍、生死のほども如何相なり候哉[や]と、恐る恐る覗き申候に、崖はなかなか険岨[けんそ]にて、大木横ざまに茂り立ち候間より広々としたる墓地見え候のみにて、一向に人影も無御座[ござなく]候。