「更衣室のマナー - 角田光代」中公文庫 楽しむマナー から

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スポーツクラブに入会したばかりなのに、もう足が遠のいているのだと、年若い知人が打ち明けた。ああ、面倒でいかなくなる人っているよね、とうなずいたが、そうではないらしい。彼女曰く「だってみんなあんまりにも大胆だから愕然としちゃって、なんだかいきにくくなって」。更衣室の話らしい。大胆というのはつまり、みんな、乳や尻を出しっぱなしにして歩いたり、髪を乾かしたり、しているということなのだろう。
え、でも、更衣室でしょ?と私は訊いた。ええ、とうなずいて彼女、「でも」と眉間にしわを寄せる。が、でも、のあとが続かない。更衣室は衣類を着脱する場所で、だからすっぽんぽんになるのも詮方ないが、でも。でも、のあとには、恥ずかしい、あられもない、みっともない、見たくない、見せなくない......等々の、言葉にはならぬ思いが続くのであろうと想像する。
裸になるのがみっともない、という気持ちと、肉体的成長は比例する。個人的なたとえを出せば、小学校高学年から急速に体重と身長が増えかつ伸び、高校生あたりでピーク。20代半ばからゆっくりと衰えはじめ、30代半ば過ぎで、その衰えをはっきり自覚する。それとまったく同じに、中学高校では同性にすら裸体を見せるのが恥ずかしかった。20代半ばからだんだんとどうでもよくなって、30代半ばでは温泉でもスポーツクラブでもとにかく衣類着脱を目的とする場ならば、恥ずかしいことなどただのひとつもなくなった。
出るところが出ていない、出なくいいところが出ている等々、個人差はあれど、しかしだれしも同じ裸は裸。だれも他人の裸など見ていない。恥ずかしがってもたついたり、タオルで隠したりする人がいると、何か珍しいものがくっついているのか、金をとらねばもったいないくらい美しいのか、かえって気になりチラチラ見てしまう。そう、隠されれば見たくなるのが人の心理。
高校生のころ、私はたいへんに息苦しさを感じていた。思春期の閉塞感ともいえるが、それは同時に、裸になっていい場所でなれない自意識の故もあったと思う。年齢を重ねてもっともよかったことは、あの自意識のがんじがらめから逃れられたことだ。更衣室で正しく衣類を脱げることは、人を息苦しさから救うのだと、大げさでなく、思う。だから年若い彼女よ、スポーツクラブなんて退会してしまいなさい。あと5年後、体力の衰えも実感できるころ、また新たに入会すればよろしい。そのときには更衣室の「でも」からもきっと解放され、着脱すべき場で着脱することの、まっとうなすがすがしさもきっと味わえるはずである。