「禁じられた性書 ー 川本三郎」実業之日本社刊 あのエッセイ この随筆 から

「禁じられた性書 ー 川本三郎実業之日本社刊 あのエッセイ この随筆 から
 

散歩をしているとよく同じ浜田山に住む団鬼六先生の姿を見かける。先生がいまほど有名になる前、横浜のお住まいにうかがったこともあるし、先生の性愛文学の傑作『花と蛇』のことは何度か書いたことがある。
昨年(九九年)、幻冬舎アウトロー文庫で『花と蛇』の「最終完結版」が出版されたとき、光栄にも解説役をご指名いただいた。
先生は最後に静子夫人の死を考えていたようでしたが、わが永遠のヒロインを死なすようなことだけはやめて下さいと編集者を通じて懇願し、静子夫人は死なずにすんだ。
それにしても、青春時代、『奇譚クラブ』に連載されていた「花と蛇」を世をはばかるようにして読んでいたことを思うと、これが文庫化され、いまや若い女性にすら抵抗なく迎えいれられているのは驚くしかない。隔世の感がある。
世にSM雑誌があると知ったのは高校時代で、古本屋の片隅で『奇譚クラブ』や『風俗奇譚』といった雑誌を見つけ、そこに緊縛された女性の写真があるのを知ったときのうしろめたいような、熱くなるような興奮は忘れられない。わが“ヴィタ・セクスアリス”である。

森鴎外の「 ヴィタ・セクスアリス」(鴎外の表記に従えば「ヴィタ」ではなく「ヰタ」)のなかには、思春期のころに読んだ、性的刺激を受けた本のことが書かれている。ふつう、“私の一冊”などでは絶対に語られない。いわば“裏・私の一冊”である。
鴎外は十代のはじめ、東京英語学校に入学し、寄宿舎ずまいをした。思春期の男ばかりがひとつ屋根の下で暮らす。異性との恋愛などまず考えられなかった時代だから、当然、男どうしの関係にやる。男色である。
美少年が先輩たちに愛される。「少年」とは「男色の受身」という意味があった。学生だから本もよく読む。寄宿舎には貸本屋が出入りしている。滝沢馬琴山東京伝がよく読まれる。柔らかいところでは為永春水
しかし、そうした有名な作者の本よりも、もっと人気のある本があった。
「平田三五郎という少年の事を書いた写本があって、それを引張り合って読みのである」。実は、これは男色の本である。
「三五郎という前髪と、その兄分の鉢×奴(はっぴんやっこ)との間の恋の歴史であって、嫉妬がある。鞘当がある。」
慶長年間、薩摩の島津につかえる名のある家臣の子、美少年の平田三五郎が、兄貴分の忠勇無比の青年武士、吉田大蔵清家と義兄弟の契りを結び、生死を共にする男色譚。
鹿児島市古書店、下園あづさ書店本舗の古書目録九九年三号掲載の、作家五代夏夫の随筆によると、この本は「賤(しず)のおだまき」という、作者も成立も不明のものだという。
鴎外は「鹿児島の塾なんぞでは、これが毎年元旦に第一に読む本になっているということである」と書いている。男色のさかんな薩摩らしい。それが維新後、東京にも伝わり、英語学校の生徒たちのあいだでさかんに読まれる。いまふうにいえばポルノ小説の役割を果していたのだろう。
大岡昇平の自伝小説『少年』(講談社文芸文庫)にも、“禁じられた性書”が登場する。大正のころ、東京に住む十代はじめの大岡少年はある日、渋谷の本屋で雑誌を立ち読みしているうちに、一枚の挿絵が目に入った。それまでに見たこともない大胆な絵だった。
裸の女性がベッドに坐(すわ)り、シーツで胸をおおい、おびえた表情でうしろを向こうとしている。男が部屋に入ってこようとしている。シーツは胸をおおうには十分ではなく乳房がのぞいている。
刺激的な絵にひきずりこまれた大岡少年は文章を読む。翻訳小説らしい。一人の少女がかどわかされて奴隷としてトルコあたりに売られていく。彼女がベッドに腹這いにされてムチ打たれるところに異様に興奮する。
後年、大岡昇平が調べたところ、この作品はシェーンというドイツ人の書いた『人肉の市』という翻訳小説で、当時(大正十年)、講談社から出版されてベストセラーになったという。「家へ帰っても、高畠華宵の挿画が眼に浮んで来て、勉強ができなかった。諦めて寝床へ入っても、おびえた裸女の腕と乳房を思い出し、彼女が鞭打たれ、犯される場面の文章を反芻していた」。
これから中学校を受験しなければならない少年には強烈な体験だったことだろう。大岡少年は自分が異常者ではないかと一時、大いに悩んだという。
この『人肉の市』、古本屋で手に入れたものがいま手元になるが、大正十年に、講談社の前身、大日本雄弁会で出版され、二年後には、なんと五百九十版となっている。おそらく「ポルノ」として読まれたのだろう。
ちなみに引用文中の「高畠華宵」とは、抒情的な美少女、美少年の絵で知られた大正期の画家で、いまでも人気があり、文京区の弥生美術館ではよくその絵が展示されている。宇和島出身で、愛媛県重信町には現在、高畠華宵大正ロマン館という美術館が作られている。
華宵の描く女性たちは、触れなんば落ちんの受身のエロチシズムがあり、もし現在に生きていたら、ぜひ『花と蛇』の静子夫人を描いて欲しかったと思う。

女性にも“禁じられた性書”はあるのだろうか。
『妖』『女坂』などで知られる円地文子は、女性の性の妖(あ)やしさにこだわった作家だが『朱(あけ)を奪うもの』(以前、新潮文庫に入っていたが、現在では、もう絶版か)では、少女時代に、祖母から、鶴屋南北河竹黙阿弥の歌舞伎、滝沢馬琴柳亭種彦の読本草双紙などに描かれた江戸デカダンスを読み聞かされているうちに、美女が虐待される責め場に異様に眩惑されたと回想している。
「浦里や中将姫の雪責めだの切られお富のなぶり殺し、皿屋敷のお菊の折檻場などの話を滋子はいく度もきいた。それらの虐待される女主人公は必ず美しい女でなければならず、彼女達の白い軟い手や胸に荒々しい縄目が食い込んだり、箒木や弓の折れに打ちたたかれる度に髪が乱れ身体がちぎれるほど身悶えして悲鳴を上げる。その無慙(むざん)さがすべて異様な美しさに感じられなければならなかった」
このくだり、学生時代にはじめて団鬼六の『花と蛇』を読んだときの異様な興奮とほとんどかわらない。