「一病息災 - 色川武大」ちくま文庫 色川武大・阿佐田哲也ベスト・エッセイ から

f:id:nprtheeconomistworld:20201107082149j:plain



楽あれば苦、苦あれば楽、という言葉があるね。実際そうかどうか、これは微妙な問題なんだけれども、いつかも記したとおり、これは昔の人のバランス感覚から生まれた言葉なんだろうな。
若い頃の一時期、この言葉に中毒しちゃった頃があってねえ。ちょうどばくち打ちの足を洗って、市民社会の底辺で社会復帰しようとしていた頃だなァ。楽あれば苦、なのならば、楽になるわけにはいかない。あとの苦が怖いからね。で、とりあえず、目前の苦をとろう。
しかし、苦をとっちゃうと、その次は楽が来る。楽が来てしまえば、次は苦になるわけだから、まずい。
では、目前の苦をとったあと、楽が来るより先に、すぐまた別の苦をえらばなければ安心できない。
なんのことはない、苦ばかり味わっているようなことになるんだけれど、当人はそれよりほかに打つ手がないような気分なんだ。
苦にもいろいろあってね。大きな苦もあるし、日常的な苦もある。大きな苦をさけようとして、日常を苦一色にしてしまうんだな。その頃は、まだ自分は攻めにまわる時期じゃない、と思っていたせいもある。
けれども、まァ中毒だね。
会社に出勤するんでもね。のんびり電車に乗って、楽をして行ったりすると必ずわるいことがあるように思えちゃうんだね。だから、二時間かかって走っていったりね。汗まみれで、くたくたになって、遅刻していたりね。
だけれども、そのままにしておくと今度は楽が来ちゃったりすると大変だから、何かまた苦のタネを探したりしてね。
同じ苦でも、自分からえらびとった苦なら、まだ救われるような気がしたんだね。それに、肉体の苦痛ならば、苦の中でも一番あつかいよい苦だからねえ。うっかり楽をして、そのあと迎える苦というものは、何が来るかわからない。これが怖いんだな。
俺たち、戦争を知ってるからね。見渡すかぎり焼け跡で、ああ、地面というものは、泥なんだな、と思ったんだね。
そのうえに建っている家だとか、自動車だとか、人間だとか、そんなものはみんな飾りであって、本当は、ただの泥なんだ、とあのとき知ったんだ。
だからね、戦争が終わって、また家が建ち並んで、人間がうろうろするようになったけれども、これは何か普通じゃない。ご破算で願いましては、という声がおこると、いっぺんになくなっちゃって、またもとの泥に戻る。
それが怖いような気がする。なんとか、飾りの人生を、神さまのお目こぼしで続けていきたい。
それには、調子に乗って楽をしてたんじゃ駄目だ、と思う。ご破算にならないように、おずおずと、小さな苦をひろって、小さくなって生きていかなくちゃ。
家の中に住んだり、電車に乗ったり、カレーライスを食ったり、お風呂に入って歌を唄ったり、そういう人並みなことというものは、すでに普通じゃないんだから、それに見合う苦を自分でひろってかなきゃならない。
この考えに中毒してくると、きりがないんだね。またいったんそう考えると、中毒しやすいんだ。
それに、俺の場合は、小さいときから負けなれているんだから。楽とか苦とかいう言葉を、勝ち星、負け星、というふうにおきかえてみてもいいんだけれど、俺がなんとか今まで生きてこれたのは、ずうっと負けてばかりいたからだ、というふうにも思えるんだ。
だって、戦争で、ずいぶんまわりの人が死んでるからね。俺に焼夷弾が当たらなかったのが不思議なんだから。
焼け跡が、まだ眼の前に残っていた頃は、大昔の人が、雷や嵐をおそれたように、本当に物をおそれながら生きていたね。
今日一日が、なんとか過ぎていくということが、恵まれているような気がしてしようがない。
たまに、電車なんかに乗っていると罰が当たりそうでね。いきなり電車の中で走りだしちゃって、車内を行ったり戻ったり。
会社の部屋の中で、不意にぐるぐるはしっちゃったり。気狂いだね。
それでもね、だんだん世の中がおちついてきて、ビルやなんか建ち並んでくる。それと同じように、俺も、なんとか病気にもならずに、毎日を過ごしてる。
これが怖いんだね。不意に、ご破算でねがいましては、という声がきこえてきそうでね。
日常ね中の、小さな勝ち星や負け星もあるんだけど、大きな眼で見るとなんとか生きているというだけで、勝ち星が並んでいるように見えはじめたんだ。
でも、全勝なんて、幻だからね。
俺はね、世の中とうまく折り合いをつけて、スムーズに栄えていく人を見ると、
あ、そんなに小さな勝ち星にばかりこだわっていいのかな、大きなところのバランスシートにも神経を使わないと、ご破算になるぜ。
なんて思うんだね。負けなれている奴の発想なんだろうけどね。
どうすれば、大きなところのバランスがとれるのか、俺にもはっきりしたことはわからないんだけれども。
一病息災という言葉があるね。あれも、一種のバランス志向の言葉がなんだろうね。まるっきり健康な人よりも、ひとつ病気を持っている人の方が、身体を大事にするので、かえって長生きする、というわけだ。
健康のことじゃなくて、生き方の上でも、そういうことがいえるんじゃないかなァ。
ひとつ、どこか、生きるうえで不便な、生きにくいという部分を守り育てていく。わざわざ作る必要はないかもしれないが、たいがいは自分にそういうところはあるからね。
普通は、欠点はなるべく押し殺そうとするんだな。そうじゃなくで、欠点も、生かしていくだ。
もちろん、欠点だらけになって、病気の巣のようになっても困るんだけれどもね。
それから、欠点といっても、なんでもいいわけじゃない。やっぱり、適当なものがいいね。
俺なんか、ひどい欠点ばかりの人間だったから、どれを生かしたらいいか迷ったけれどもね。
一病息災というのは、主に年をとった人に当てる言葉たけれども、今、俺が記していることは、若い君たちに向けていってるんだよ。
長所と同じように、欠点というものも、できれば十代の頃から意識的に守り育てていかないと、適当な欠点にもならないし、洗練された欠点にもならない。
それに、適当なものをえらびだす勘は、なんといっても若いうちにかぎるからね。
欠点のうちで、他人にいちじるしく迷惑をかけそうなもの、これは自分にとってもマイナスが大きいから、押し殺すにかぎる。
自分が生きようとする方角に、まったく沿わない欠点、これも不適当だ。
あんまり小さい欠点でも、この対象にならない。不器用で棚も作れない、なんてのは、それで生きにくいというほどじゃないからね。
何がいいか、それぞれ自分に合わせて考えるよりしようがないが、とにかくあまり流暢(すらすらと)に生きようとしないことだね。
生きにくくてなやむくらいでちょうどいい。欠点はまた裏返せば武器にもなる。ただし、その欠点をきちんと自分でつかんで飼っていないとね。
それで若い時分に飼いならせるといい。