2/2「鍵(郁子・四月十七日) - 谷崎潤一郎」新潮文庫 鍵・瘋癲老人日記 から

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2/2「鍵(郁子・四月十七日) - 谷崎潤一郎新潮文庫 鍵・瘋癲老人日記 から

十時半に風呂が沸いたことを二階へ知らせた。夫が入浴したあとで私も浴びた。(私は今日は二度目である。さっき大阪で浴びたので、浴びる必要はなかったのであるが、夫に対する体裁上浴びた。今までにもそんなことは何回かあった)私が寝室に這入[はい]った時、夫は既にベッドにいた。そして私の姿を見ると直ぐにフロアスタンドを点じた。(夫は昨今、あの時以外は余り寝室を明るくすることを好まなくなっていた。それは動脈硬化の結果が眼にも来ていて、周囲の物象がキラキラと二重にも三重にも瞳に映り、視覚を強く刺戟[しげき]して眼を開けていられないらしいのである。で、用のない時は薄暗くしておいて、あの時だけ蛍光燈を一杯にともす。蛍光燈の数は前より殖えているので、その時の明るさは可なりである)夫は急に明るくなった光の下に私を見出して、驚きの眼をしばだたいた。なぜかと云うのに、私は風呂から出ると、ふと思い付いて、イヤリングを着けてベッドに上り、わざと夫の方に背中を向けて、耳朶の裏側を見せるようにして寝たからである。そう云うほんのちょっとした行為で、今までして見せなかったことをして見せると、夫は直ぐに、簡単に興奮するのである。(夫は私を世にも稀なる淫婦であるように云うけれども、私に云わせれば、夫ぐらいたえず慾望に渇[う]え切っている男はいない。朝かは晩まで、どんな時でも夫はいつもあのことばかり考えていて、私の極めて僅かばかりの暗示にも忽[たちま]ち反応を呈せずにはいない。隙を見せれば即座に切り返して来るのである)間もなく私は夫が私のベッドの方へ上って来、うしろから私を抱きすくめて耳の裏側へ激しい接吻をつづけざまに注ぐのを、眼をつぶったまま許していた。......私はそんな工合にして、今までどんな意味ででも愛しているとは云い得ないこの「夫」と云う人に、自分の耳朶をいじくらせることを、決して不愉快には感じなかった。木村に比べると、何と云う不器用な接吻の仕方であろうと思いながら、この「夫」の変にくすぐったい舌の感触を、そう一概に気味悪くは感ぜずに、 - まあ云って見れば、その気味の悪いところにも自[おのずか]ら一種の甘みがあると云う風に思いながら、味わうことが出来たのであった。私は「夫」を心から嫌っているには違いないが、でもこの男が私のためにこんなにも夢中になっているのを知ると、彼を気が狂うほど喜悦させてやることにも興味が持てた。つまり私は、愛情と淫慾とを全く別箇に処理することが出来るたちなので、一方では夫を疎[うと]んじながら、 - 何を云うイヤな男だろうと、彼に嘔吐[おうと]を催しながら、そう云う彼を歓喜の世界へ連れて行ってやることで、自分自身もまたいつの間にかその世界へ這入り込んでしまう。最初私は、自分自身は恐ろしく冷静であって、ただいかにすれば彼をこれ以上悩乱せしめることが出来ようかと、一途にその面白さに惹かれ、彼が今にも発狂しそうに喘[あえ]ぐさまを意地悪く観察しつつ、自分の技術の巧みさに自分で酔っているのであるが、そうしているうちに、次第に自分も彼と同じように喘ぎ出し、同じように悩乱してしまう。今日も私は、昼間木村と演じた痴戯の一つ一つを、そのままもう一度夫を相手に演じて見せ、彼と木村とがどう云う点でどう云う風に違うかを味わい分けることに興味を感じていたのであったが、 - そして昼間の相手に比べて、この男の技の拙劣なのに憐びん[難漢字]をさえ催していたのであったが、どう云う訳か、そうしているうちに結局私は昼間の場合と同じように興奮してしまった。そして木村を抱き締めたと同じ力でこの男を強く抱き締め、この男の頸[くび]に一生懸命獅噛[しが]み着いた。(ここらが淫婦の淫婦たる所以[ゆえん]であると、この男は云うのであろう)私は凡[およ]そ何回ぐらい、彼を抱き締め抱き締めしたかは覚えていない、が、私が何分間かの持続の後に一つの行為を成し遂げた途端に、夫の体が俄[にわ]かにぐらぐらと弛緩し出して、私の体の上へ崩れ落ちて来た。私は直ぐに異常なことが起ったのを悟った。「あなた」と私は呼んでみたが、彼はロレツの廻らない無意味な声を出すのみで、生ぬるい液体がだらだらと私の頬を濡らした。彼が口を開けて涎を滴[た]らしているのであった。.........