1/2「日常の快適について - 玉村豊男」日本の名随筆別巻76常識 から

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1/2「日常の快適について - 玉村豊男」日本の名随筆別巻76常識 から

私は、一度だけだが、馳け落ちを試みたことがある。二十五歳のときだ。
私がつきあっていたのはB子という、同い年の、美しく、愛らしく、聡明な、魅力に富んだ女性だった。共通の友人を介して会い、ほどなくしてたがいに関心を抱き合うようになり、関心は急速に恋愛感情にまで発展した。はじめて口づけをかわしたのは春の終りで、秋の風の立つ頃には、ともに結婚の相手をこの人と思い定めていた。
当時、私は、定職を持たなかった。それを言うなら今も同じようなものだが、自由業といえば聞こえはよいものの、ときに通訳をしたり、翻訳をしたり、外人相手の観光案内を引き受けたりの、その日暮らしを送っていた。もっと落着いた、たとえば自分で文章を書いて生計を立てるような状態を望んではいたのだが、もとより怠惰でそのための努力といえるようなことはなにひとつせず、ただどこからか自分の人生を変えるようなチャンスがやってくるのを待ち続けていたわけで、そんな考えの者にそう簡単にチャンスがやってくるはずもない。しかし、生活の設計をすることと人を好きになることとは別の問題であり、好きになればその人と四六時中いっしょにいたいと思うようになるのは至極当然だから、私自身は、自分がどのような状態であってもその人との結婚を望んだのであった。
馳け落ちの顛末については、細部に関してはかなり記憶が欠落している。十五年前には死ぬか生きるかの大問題だったのが、いまではいくつかの場面の鮮明な映像の他はすべてセピア色に褪せた古い写真のようになってしまっている。だから、私がB子の実家へ、お嬢さんを私にください、と言うために一人で乗り込んでいったのがいつの季節だったかも、はっきりと憶えてはいない。年の暮れが近かったのか、それとも早春を迎えてからのことか。ただ、馳け落ちを決行する予定の日が、相当寒い頃であったことはたしかなのだ。
彼女の父親には、一喝されて帰ってきた。定職を持たぬ、将来の展望もない者に娘をやるわけにはいかん、という、父親としてはもっともな意見だった(私はそのときに将来は物書きになりたいと言い、彼女の父は物書きになるのならまず新聞社にでも勤めて修業するのが常道だと言ったことだけはよく記憶している)。しかし、父親の意見と私の希望とは、これもまた別の問題であり、父親がどう考えようと私は彼女といっしょになることを望んでいたので、事を穏便に運ぶことができない以上、必然の帰結として、いささか手荒いが馳け落ちという方法を選ぶことになったわけだ。
彼女は、もちろん、困惑した。素直に育った良家の子女であったから、親に反逆するような行為の実行に関しては、よほどの覚悟が必要だった。それでも、恋愛は多少無頼の精神を育む性があるもので、私の強力な説得も効を奏してか、とうとう馳け落ちを決行することに同意したのである。そして私は数人の友人たちの協力を得て、某日の夜半に彼女の家の裏口近くにクルマを差しまわし、身の回りのものを持って飛び出してくるB子をさらって、横浜のホテルに投宿する手はずをととのえといたのだった。
先のことはあまり深く考えていなかったが、あとはどこかに安アパートを探して、同棲生活をはじめるつもりだった。だから私のほうも、身辺を整理して、新しい生活のために役立つものがあれば持って行こうと、中華鍋などを磨いていた。その頃から私は自分でよく料理をつくっていたので、すでによく使い込んだ中華鍋を所有しており、中華鍋が一個ありさえすればたいがいの料理はできるから、新婚の生活にはさぞ便利であろうと思い、しかし曲がりなりにも二人の新しい門出であるからには、あまり黒い煤がたくさんついているのもよろしくなかろうと、必要な分まで削り落とさぬように注意しながら(煤はある程度ついていたほうが火のまわりがよい)、鍋の化粧直しをしたのである。
そんなふうにして、実行の日が近づいた。