1/2「研究とエッセイと - 山本博文」こころを言葉に-エッセイのたのしみ から

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1/2「研究とエッセイと - 山本博文」こころを言葉に-エッセイのたのしみ から

第四十回エッセイスト・クラブ賞を受賞した『江戸お留守居役の日記』は、江戸時代初期、萩藩(長州藩)江戸お留守居役を務めた福間彦右衛門の日記を分析した歴史書である。この日記には、幕府と藩の交渉や江戸藩邸の生活に関するさまざまな情報が書き込まれていて、日本近世史の研究の上で希有な記録だが、三十六冊に及ぶ日記の中から、個々の研究テーマに関するところをつまみ食いするのはいかにも残念だった。
山口県文書館に出張し、彦右衛門の日記に出会った頃、私は読売新聞出版局のベテラン編集者深水穣二氏から本を書かないかと勧められていた。まだ、三十歳になったばかりのことである。
深水氏の最初の勧めは、その頃話題になっていた織豊期の新史料『武功雑記』などを活用して、新しい歴史概説を書けないか、といったものだったと思う。しかし、件の『武功雑記』は、歴史家の間では評判の悪い記録で、とてもまともな史料とは思えなかった。近年、『武功雑記』の史料批判を行った本が刊行されたが、専門の歴史家がこの史料にはほとんど触れなかったのは、一読しただけで使えないものだということがわかったからであろう。そこで、私は、発見したばかりの彦右衛門の日記のことを話し、これを使って江戸初期の江戸藩邸をめぐる本を書いてみたいと希望した。
深水氏にとっては、それがはたして本になるかどうかわからなかったに違いない。無名の武士の日記が、一般の読者の興味を惹くとは思えないからである。しかし、私は、研究者としての興味から、この日記を一般に知らせたいという気持ちが強かった。
一応、深水氏の了承を得て、山口県文書館で撮影してきた日記をコピーし、夜、毎日自宅でこの日記を読み、メモをとった。そして、そのメモをもとに構想をまとめ、執筆にかかり、第一稿ができた。
深水氏に見せると、しばらく返ってこなかった。催促すると、料理にたとえて、「素材は一流、料理も一流だが、盛りつけの面で少し......」ということだった。つまりは、一般の読者には分かりにくい、ということだったのだろう。史料は書き下し文だけで現代語訳は入れていなかったし、研究上の興味から分析的な部分が多すぎた。
そこで書き直しに精を出すことになる。書き下し文には現代語訳を入れ、目次を再検討して記述の順序を入れ替えるなどした。しかし、それでもなかなか深水氏のOKはでない。結局、第一稿を仕上げてから細かい書き直しを入れる第九稿まで、時間にして二年近くも書き直し作業を継続した。

こうしてできあがった本が、『江戸お留守居役の日記』というシンプルな題名を付けられ店頭に並ぶと、こうした堅い本には珍しく、ずいぶんと良く売れた。すぐに第二刷、第三刷が作られ、本屋の平積みの本も、第一刷が二刷、三刷に入れ替えられていった。本屋の歴史書のコーナーにいた私の目の前で、その本を手に取りレジに持って行った女性もいた。そんな経験は、それ以前は当然のこと、それ以後も一度もない。そして、その翌年、日本エッセイスト・クラブ賞をいただくことになったのである。
この本は、いわゆるエッセイ的なものではない。私は、単なる歴史書ではないという意味を込めて、「歴史ノンフィクション」という宣伝文句を考えたが、あらためて考えてみると、やはりこれはエッセイなのである。この本は、当時の武士や町人たちの生活や行動を史料から明らかにし、それをもとに考えを巡らせるというスタイルをとっている。政治のダイナミックな動きは背景に退いているし、ある特定のテーマだけを取り上げて分析しているわけでもない。しかし、それによって、一般の歴史書よりもはるかにその時代が身近に感じ、様様な人間像が浮かび上がってくるという利点もある。
それ以後、私は、求められるままに、こうしたエッセイを自分の仕事の一つとした。「歴史ノンフィクション」として書き下ろした『江戸城の宮廷政治』『島津義弘の賭け』もそうだが、いくつかの雑誌に連載した文章はまさにエッセイ的なものである。
歴史家は、ある研究テーマを追究し、研究論文を執筆していく過程でさまざまな史料を読む。その中には、当時の習慣や人々の感情を窺わせる記述が散見するが、そうしたものは研究の本筋から外れるので脇に置かれ、そのうち忘れてしまう。そうした史料の断片を掬い上げ、文章として残しておけば自分の備忘録にもなり、その文章を糸口に研究が進むこともあるだろう。それが、私の「戦略」だった。