「「さようなら」の理由 - 竹内整一」ベスト・エッセイ2018から

 

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「「さようなら」の理由 - 竹内整一」ベスト・エッセイ2018から

桜が咲いて散る季節は、別れと出会いの交錯する時節でもある。三月から四月にかけて、学校や職場で、どれだけの「さようなら」が交わされたことだろう。
一般に世界の別れの言葉は「神の身許[みもと]によくあれかし(Good-bye)」か「また会いましょう(See you again)」か「お元気で(Farewell)」の三つに大別される。が、日本語の「さようなら」は、そこには入らない特殊な表現である。
「さようなら」という言葉は、もともとは、先行のことを受けて、後続のことが起こることを示す、「然[さ]らば」「左様ならば」という意味の接続詞であった。それがやがて、別れ言葉として自立して使われるようになったものである。日本人は、別れに際して、この「さらば」「さようなら」といった、ちょっと不思議な言葉で、十世紀の昔から別れてきているのである。
一九六四年の東京オリンピックの閉会式で、電光掲示板に「SAYONARA」の文字が浮かび上がり、この日本語は一気に世界中に広められた。現代ではさらに、「それでは」「では」「じゃあ」とか「ほな」「だば」といった、「さようなら」とまったく同じ種類の言葉も頻繁に使われている。
そこには、別れに際して、「さようであるならば」といったん立ちどまり、それまでの何ごとかを確認することによって、さきのことに進んで行こうとする(逆に、そうした確認がないとさきに進んで行きにくい)という、日本人の独特な発想があるていわれる。
何を確認しているのかといえば(むろん挨拶言葉として、いつも意識的にそうしているわけではないが)、その別れの時までに自分がしてきた事柄のあれこれであり、また、その別れという事態をむかえるにあたっては、自分にもどうにもならないこと、不可避なこともあるわけで、そうした事柄のあれこれも同時に確認されているのだろう。
「サヨナラ」ほど美しい別れ言葉を知らないと言ったアメリカの作家、アン・リンドバーグはこう理解している。 - 世の中には、出会いや別れを含めて、自分の力だけではどうにもならないことがあるが、日本人は、それをそれとして静かに引き受け、「そうならぬばならないならば」という意味で「サヨナラ」と言って別れているのだ -、と。
そこには、ともあれこれまでを確認し総括することにおいて、これからがどうであるかは問わないままに、何らかのかたちでさきへとつながって行こうとする祈りのようなものを見いだすことができる。
つまりそれは、これまでが「さようであるならば」、これからさきどうなるかわからないけど、わからないままに「何とかなる」「だいじょうぶ」だと、言い聞かせようとする、たくまずして編みだされてきた、いわば「おまじない」のような言葉なのである。先人たちからずっと引き継がれてきた大事な挨拶言葉である。