「老境 - 斎藤茂吉」斎藤茂吉全集第七巻

 

「老境 - 斎藤茂吉斎藤茂吉全集第七巻

私はまだ七十にもならぬから、『老境』などといふ註文には應ずるななどといひますけれども、去年あたりから、急にいきほひが無くなりましたやうです。去年の初秋ごろ、齒の工合が悪くて齒科醫に通ひました。はじめのうちは徒歩で元氣よく通ひましたが、去年も暮れ、今年のはじめごろになりますと、歩行が難渋になりました。實にをかしなものだ。
それから、手紙やハガキの返信が出來なくなつた。返信しようと思つても億劫で、大儀でそれに堪へられない。私は割に、(このごろは割方などといふ言葉がはやつてゐる。流感みたいに流行つてゐる。その割方)、つまり比較的に、まめに返信をしたものであつたが、そのころから、大儀で出來なくなつた。前には返信をせぬといふことが氣になつて爲方がなく、そこでいやいやながらも返信したものだが、このごろは、萬事が氣にかからぬやうになつた。氣にかからぬから、萬事うつちやつておくといふことになる。この事柄をおしひろめて行けば、『死』などといふ事柄だつて、若い者のやうに氣にかからぬことになつて、わりかた氣樂に往生が出來るのではないかとおもはれるのである。若い者の心中などは餘程の決心で、幾分麻痺藥でも服んで、お互に抱き合つたりして、苦勞して死ぬのであらうが、耄ろくしたものは、そんな手數もいらず、自殺などといふ手數もいらず、はなからの手數もいらずに、往生出來るのではあるまいか。
性欲などといふものも、そのとほりである。谷崎さんの小説が、このごろ新聞に出てゐるが、あれは格別で、中華の古人などがいつた、いはゆる『耄期』に入つたものは、玉莖などもしなびてしまつて、から見映えのしないものになつてしまふ。從つて、美姫の脣などといふものだつて、邪魔ものになる。そんな邪魔ものの無い方が安樂に寝れるといふことになる。妙に厭迫されるといつた、一種の衝動におびやかされるといふことがなく、傍にそんな邪魔ものもなく、ひとりぼつちで、厚ぶすまで體をうづめ、とぷりと獸類の穴ごもりするやうな感じで、ほのりほのりと暖まるといふことは、全身が清爽で何ともいへぬ終末である。似たものを思つてみるなら中華國の山水圖はそれに似てゐるだらうか。彼の山水圖に老翁が往來してゐて、ぷんぷんたる美女の香が無い。美女の香は大切なものかも知れんが、その大切なものを失ふことを、南京豆一つ(つまりピーナツツ一つ)失ふぐらゐにしか感ぜぬといつた特權を持ち得るものは、ただ耄期に入つた、人間ぐらゐなものではあるまいか。さうではあるまいか。中華の詩人は、よく『老境』を歌つて、よく歎息するけれども、あれなんかも、見様によつては、一種の自慢とも見ることができる。いかがなものだろうか。