「谷中、花と墓地 - E・G・サイデンステッカー」ベスト・エッセイ2005 から

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「谷中、花と墓地 - E・G・サイデンステッカー」ベスト・エッセイ2005 から

昭和二十四年の春。東京で初めて日本の花見を味わった。
終戦直後に日本の地を踏んではいたものの、九州の、しかも秋冬の期間であったから、花には縁がなかった。東京の春が私にとっての最初の日本の春であり、花もまた然り。
その春、私は日本の友人に谷中の墓地に案内され、初めて花見というものを体験したのである。以後、毎春花見をするようになった。大勢で打ち興じる花見、独りで辿る花見と趣を変えて楽しんだ。団体のときは東京周辺の著名な花の名所をあちこちと巡ったが、独りでの花見はたいてい谷中に決まっていた。
どの国においても、墓地は美しい。東京の墓地も例に漏れない。しかし、私の見た限りでは、ほかの国では見られない特色がいくつかある。第一は、花の季節になると町中でもっとも賑やかな場所となることである。まるで盛り場。死者と生者が交流して花を楽しんでいる、といった風情である。日本人ではないから、これは神道の影響であるといった差し出がましいことはいえないのであるが、なにかそうした関連があるような気がする。神道は死者を身近に置くのである。アメリカの開拓時代にも、亡くなった者を裏庭に埋葬する習慣があった。幾分似ているような気がする。とにかく桜の花の満開の時は、賑やかな谷中墓地は独り歩きに理想的な場所であった。
独りの花見は、私の年中行事となる。アメリカの大学で専任講師をした十年くらいは日本の花の季節を留守にしたが、秋から初冬へかけてだけの勤めになった昭和三十五年辺りから再び東京の花見を楽しむようになる。ときには谷中だけでなくほかへも足を伸ばした。そのころはまだ上野公園から隅田川まで歩くぐらい、まったく苦にならなかった。
ところが、一時花見が嫌になった時期がある。カラオケでがなりたてる輩が出没するようになったからであった。耳障りな雑音によって見物気分は興ざめ、桜ね花の美しさも台無しになった。特に上野公園でそれが顕著だった。
しかし、最近花見の席からカラオケが無くなった。禁止になったようである。おかげで上野公園の花が充分谷中の花の代りになるようになった。誰が禁止にしたのか分からないが、感謝したい。谷中まではいささか無理になった足腰でも、上野ならなんとか自力で楽しめるからである。ついでにいえば、いたるところからカラオケが禁止になるとなおいい(ちょっと無理かもしれないが)と思う。そうすると破産してしまうバーや失業するホステスが多くなるに違いないが、カラオケを歌わせておけばいいだけの接客なんて、もともと客を軽んじているのではないだろうか。カラオケが流行る以前には、感心するほど楽しませ上手のバーデンやホステスがいて、さすが接客のプロと感じ入ったものだった。

 

谷中は美しい場所であると同時に東京中の最もおもしろい墓地であると思う。公共の墓地として一番古いからであろう。
花時が過ぎても、谷中の墓地には楽しみがある。ここには有名人やかつて有名だった人々の墓が多い。タレントのない名ばかりのタレントやアイドルが頻繁に出没する今の時代には、沢田正二郎川上音二郎の名を覚えている人はほとんどなかろう。二人とも今は谷中に眠っている、墓地に行くたびに必ず墓参りするのは、鷲津毅堂である。明治の儒者漢詩の作家。永井荷風の母方の祖母だった。荷風の『下谷の家』の中心人物である。幕末情緒に富んだ作品であるが、現在はあまり読まれていないだろう。荷風も最近はあまり読まれていないようではあるが、東京を愛する人には必読の作家である。

どこの墓地でも有名人・無名人の墓が一緒になっているが、谷中を歩いていると大正十二年九月一日と昭和二十年三月十日に死んだ人々の墓がいかに多いかに気がつく。また、この墓地は江戸や東京という町にも似ている。江戸でも東京でも金持ち族と貧乏族が隣どうしで背中を合わせている。世界の一般は、そうではないように思う。
例えはニューヨークである。郊外に住む裕福な友人たちが競って嘆くのは、労働階級が近くにいないことである。従って、たとえ掃除の手伝いといった家事仕事があっても、遠くからの通いを雇うより仕方がない。自ずと掃除代、高くなるのである。市中であっても、金持ちの東・貧乏の西という観念が成り立つ。金持ちと貧乏がそれほど離れていないから郊外ほど掃除代が高くなるわけではないが、それでも同じような構造である。
江戸・東京は違う。もちろん階級がないということではなく、特に山の手で階級のパターンが出来てはいた。山の上は大名や下っ端の武士、谷は町人というようなことである。しかし、下町にも武家屋敷は相当多かったし、例えば蔵前の佐竹屋敷などをみても、市井の人々と隣どうしに暮していた。東京になってからが階級意識が強くなっているかもしれない。サラリーマンが増えるにしたがって、住む場所が下町から離れていくのも、そんな階級意識が働いているのかもしれない。
「よくあんなところに住んでいらっしゃる。私は上野で知っているのは、博物館とコンサートホールだけです」と女性から私(湯島住まい)は何回もいわれたことがある。
根津から山の上の墓地に近いところに引っ越しをした人から、おもしろい話を聞いた。山の下より山の上の住民の方が少し冷たくて気位が高い感じがするとのことである。東京になってから昔からの隣どうしがいなくなって、階級意識が強くなったのかもしれない。

谷中の墓地で最高の権力者といえば、最後の将軍徳川慶喜であろう。(金持ちの筆頭は渋沢栄一だろうか)。慶喜はどうしてほかの将軍と一緒に国立博物館の裏に墓がないのか、ということでいろいろな説があるが本当のことは分からない。将軍の墓についてはもうひとつ懐かしい思い出がある。終戦直後、初めて上野公園に行ったとき、破れた門から思いがけず将軍たちの墓地に入れたのだった。寂れた、かつ美しいところで、諸行無常の響が本当に感じられたのであった。
町を散歩するとき、昔から金のたっぷりある界隈よりあまり裕福でない所の方が好きである。谷中の墓地の中でもっとも惨めな墓は、高橋お伝のものであろう。墓地の端っこの公衆便所のそばで今にも滑ってなくなりそうな感じである。私はここが大好きで、側に立ってお伝の顔を想像して、ご苦労さまといいたくなる。昨今の変なタレントや女優もどきより美しかったに違いない。でなければあんな惨めな最期にはならなかったであろう。いまや若い者の幾人がその名前を知っているであろうか。