「第九章南畝北邙(一部抜書) - 野口武彦」蜀山残雨 から

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「第九章南畝北邙(一部抜書) - 野口武彦」蜀山残雨 から

それにしても、馬琴はなぜ大田家の問題にそんなに興味を持ったのか。非常に深い個人的な心理的動機があったのである。父親心理である。自分でも息子を持つ馬琴は、つとに文会なとで定吉と同席している。親の七光でちやほやされる定吉と地味なわが子と引き比べてひそかに対抗心を燃やしていたのではあるまいか。天保六年(一八三五)になっても、『後[のち]の為の記」に馬琴は「大田蜀山は独子あり。父の勤功によりて御勘定見習に召し出されしが、幾程もなく乱心して遂に廃人になりたり。但嫡孫あるのみ」とまた繰り返して書いている。だがよく見ると、この著述は南畝に限らずいろいろな親子の例を列挙した中の一つであることがわかる。馬琴が同書に並べているのは、子供運が悪かった父親の列伝なのである。
この『後の為の記』は、天保六年五月八日に一人息子の宗伯(号は琴嶺[きんれい]・名は興継[おきつぐ])に先立たれた後、痛恨をこめてなぜ自分はわが子を失わなければならなかったかを自問した文章である。宗伯は生まれたときから体が弱く、無口で、近所の子供と遊び回ることもなく、引っ込み思案な暗い少年だった。馬琴が苦労して医者にしたのも、息子の将来を案じてのことだった。宗伯は父親の言いつけをよく守り、黙々と学業に励んだ。「心ざま正直にして生涯後ぐらき事をせず、苟且[かりそめ]にも虚談せず、また戯語戯談せしこともあらず」と馬琴は書いている。嘘はいわない、冗談一つ言わない。要するに馬琴そっくりの息子に育て上げたのである。
それなのになぜ、この謹厳実直な息子が三十八歳で死ななければならないのか、馬琴には不可解だった。必死に考えるのである。馬琴の世界観では、天寿をまっとうしない人間の死はすべて変死である。だから、何一つ非道な事をしなかった宗伯が死んだのは不合理であった。その理由は説明されなければならない。でなければ、世界は不条理である。
不条理とは、何かの出来事に意味があるかないかを問うのではなく、世界にそもそも意味が存在するかが問題にされている状況である。馬琴はたとえどんなことに直面しようとも息子の不運に納得のゆく説明を求めようとした。思わず慄然とさせられるのは、馬琴がその問いかけに対する答えをどこまでも合理的に見つけ出していることである。馬琴は人間には「命数」があるという結論に必死でにじり寄った。「命数」の概念は、人間の運命が冥々のうちに天地をつらぬく巨大な「理法」に動かされていることへの思弁にまで発展する。この黒々とした合「理」主義は戦慄的であり、改めて、それが『八犬伝』を初めとする読本の世界に充満している摂理とつながっていることに驚かざるをえない。
この理法こそ、かつて「天理」の実体的実在性を喪失させ、道徳をたんなる「倫理」に卑小化した寛政朱子学が置き忘れてきたものに他ならない。ひところ流行したポスト・モダンの用語でいうなら、「大文字の理」は消滅していた。もし人間存在の背後にあるもっと大きな力で意味づけることを形而上学的欲求と呼ぶなら、学問はもうすでにそういう要請[ニーズ]に応えられなくなっていた。『八犬伝』の主人公たちはそれを化肉していたのである。後に坪内逍遙が「仁義八行[はつこう]の化物」(『小説神髄』)とこきおろした八犬士は、まさにバケモノであったが故に存在感を放っていたといえる。

この馬琴をかたわらに置いてみると、蜀山人の位置は非常に際立って見えてくるであろう。息子定吉のことが気がかりでなかったはずはない。乱心を発して勤めを辞めたとき落胆しなかったはずもない。心痛は甚だしかったであろう。だが南畝は一度たりとも馬琴のような問いかけを発することはなかった。人に見せなかっただけだということはあり得ない。それをいうなら、馬琴の『後の為の記』も公開する文章ではなかった。南畝には何か或る根本的な無関心さが備わっている。アンニュイともいえる。親子の感情を越えて世界感覚として獲得されている対人距離。南畝の辞書には「理法」という言葉はないのである。人間とその営みは「事物」の側に属する。人間にも事物にもそれぞれに固有の個別的な法則がある。真理は個別に宿る。《世界原理》には口をとざして、人性の個物性の千紫万紅、千枝万朶を受け入れ、世界の不安定な秩序を取り入れる《世界了解》が感じられる。
世界の根本に措定した「理法」に徹底的に拘泥することと、世界をただ「事物」の営為と考えることとの心性の違いは、たんに馬琴と南畝の人間タイプの問題ではない。二つの世界像の間には大きな断裂があり、南畝はむしろ新しい地層に足を掛けていたといえる。精神史上の亀裂はやがて政治史のドラマに転位して、じばらく後の天保改革期に先鋭化せずにはいなかった。天保八年(一八三七)に幕府を震撼させた大塩平八郎の乱が改革を促したといえるが、首謀者大塩中斎の学問、「理」を否定して、「気」一元論を唱え、朱子学から異端視された陽明学だったのである。天保改革の失敗は、「理法」の最終的な失敗である。以後の事態はなだれを打って幕末の精神状態に突入してゆくであろう。世界機軸の崩壊に耐える強靭で柔軟な精神が呼び起こされなくてはならない。われらが南畝は、もちろんお上に逆らう徒党ではない。しかしその感受性には一種独特の打たれ強さがあって、事物[ザツヘ]の時代に先駆けていたとはいえないだろうか。