「心配症(仮題) - しりあがり寿」一度死んでみますか?のあとがきから

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「心配症(仮題) - しりあがり寿」一度死んでみますか?のあとがきから

ずいぶん年をくったのにあいかわらず心配症がなおらない。むしろひどくなっているかもしれない。お酒を飲みながら肝臓を心配し、とろけるような肉をほおばりながら、コレステロールを心配し、幼い子どもにほおずりしながらその子の将来を心配する。
お酒を飲む時はパーッと飲めばいいのに、お肉を食べる時はその油っこさをたん能すればいいのに、どうにも損な性格としかいいようがない。その上酒を飲んでは「自分はダメだ」とか「ああもうオワリだ」みたいなことを言うから、人に嫌われてしまう。
家では「心配担当大臣」と呼ばれている。ウチの奥さんは、ボクが「会社を辞めた」と思いきって報告した時も「へー」とか言って話題を変えたほどの心配しない人だから、家でははりきって奥さんの分まで心配しているのかもしれない。
しかし、「マンガの仕事なんかいつまであるかわからない」とか「ウチの男は短命だから覚悟しろ」とかしょっちゅう聞かされるのはさすがに閉口しているだろう。
そりゃあ、世界中には明日の事もわからぬ、いや一瞬先の命すら保障できない「心配」にふさわしい国が山ほどあるだろう。むしろ歴史的にも地理的にも、現在の日本ほど「心配」の少ない国はないのかもしれない。
だけど心配してしまいのはしょうがない。しかもその心配は何も知らず何も持っていなかった若い頃よりいろいろなことを知り、失うものができてからの方が強くなった気がする。
地震、犯罪、温暖化、資源の枯渇、少子化。いろんな情報に触れれば触れるほど、それは個人の力ではどうしようにも抗いがたく、耐えられない苦痛と受けいれざるをえないものに思える。
はるか沖から巨大な津波が高い高い水の壁が、静かにゆっくりと近づいてきているようなものだ。その津波から逃げのびるために、いったいどのくらいの高さまで逃げればよいのか、はたしてそれはすべての大切なものを捨てて逃げればならないほどの災いなのか?いろいろなことが混乱し、わからぬまま、いつのまにかその津波は手おくれなほど間近に迫り、しだいに息が苦しくなり、すべてが終わる。なんだかそんなイメージから離れられない。
まったく、困った心配症だ。それはマスコミが危機感をあおる情報ばかり流すからかもしれないが、やっぱり性格の問題が大きいのだろう。
性格の問題といえば、ボクには、「心配症」ともうひとつ「ズボラ」がある。「めんどくさがり屋」なのである。心配性なのにズボラ。ヤバイと思ってもめんどくさくて何もしない。この組み合わせはまずい。
だから何か心配だと思ってもこうして言うだけである。対策を講じたり、どこかへ逃げたりは一切しない。折にふれて「まずい」「ヤバイ」とか周囲に心配をふりまくだけだ。
だから「心配」をとにかく口にする。でもって誰か行動力のある人が「そりゃヤバイな」と思って心配の元を除いてくれる。それこそが「心配性」「ズボラ」な自分の理想だ。
そーゆーことなので、行動力のある皆様、世の中けっこう心配なので、どうぞひとつよろしくお願いします。
あーでも行動力のある人が多すぎてもなんか心配だぁー(笑)。
しりあがり寿