「人生の意味深いとき - 池内紀」ベスト・エッセイ2020から

 

「人生の意味深いとき - 池内紀」ベスト・エッセイ2020から

平成が終わるのに際して、「あなたにとっての平成」とか、「もっとも印象深かったこと」を問われる。さらには、まとまった平成論を求められる。にが笑いしながら、たいていはパスさせてもらう。
元気盛りの40代から老いが深まる70代にかけての30年であって、当然のことながら、人生の意味深いときが何度かあった気がする。
そのときには、とりたてて何も気づかなかったが、気配のようなものは感じていたのかもしれない。丁度いまのような春を迎えたころで、ある神社の境内で見かけた満開の桜を、まざまざとおぼえている。花弁の白さ、大きさが異様に思えた。桜自体というよりも、そのとき心にわだかまっていたことが視覚に働きかけて、それでよけいに印象に刻みつけられたまでではあるまいか。
「じゃあ、またね」
たしか、そう言って別れた。もう両手の指で数えるほどの年月になる。にもかかわらず、このときの「またね」は少しちがっていた。もう会わないかもしれないと、心のどこかで感じていた。相手もそんなふうだった。だからこそ、よけいに力をこめて「また」と言ったのだろうか。
元号と同じで、何ごとにも始まりがあれば終わりがある。いつまでも同じではなく、時とともに変化していく。たいていは惰性が入り、くり返しの安直さに慣れていく。
気がつくと、体が病んでいた。人とのかかわりが終わっていた。仕事がうわついたものになっていた。夫婦の仲に、修復のつかないヒビか入っていた。
しかし、当のそのときには何も気づかず、何も感じていなかった。それとも知らず、人生の意味深いときを生きてきた。思えば人生というしろものは、なんとも皮肉で、意地悪なものなのだ。