(巻三十三)水すまし平らに飽きて跳びにけり(岡本眸)

(巻三十三)水すまし平らに飽きて跳びにけり(岡本眸)

5月28日土曜日

細君が生協に出かけている間に天袋からTシャツや短パンを降ろして衣更えの準備を致そうかと考えたが、万一ひっくり返って意識不明になるといけないので、細君が戻ってから致した。

少しずつ我を片づけ更衣(座安栄)

午後の散歩は図書館から時計回りつもりで家を出た。図書館まで来ると亀中から大きな音で音楽が流れてきた。運動会らしい(立看は「体育祭」)。コースを変更して校庭を覗ける駐車場に行ってみた。覗けるのだが、ネットに「観戦、応援、写真撮影ご遠慮ください」と貼り紙がしてあった。

その覗き場から、笠間稲荷、蓮光寺、亀中正門、二丁目裏通り、都住2と歩き、生協に寄って一個125円の玉ねぎ2個ほかを買って帰宅。

都住1に猫不在、都住2も花太郎不在。リハビリ病院の前の都住に猫がいたので声をかけると、逃げずにいるのでスナックを出しながら近寄ると、向こうも用心深くではあるが近寄ってきた。手の届く範囲でスナックを食べているので都住の飼い猫なのだろう。そんなところへもう一匹出てきたのでそちらにも一袋あげた。

願い事-生死直結で細君より先に知らないうちに叶えてください。

今日が36回目の結婚記念日だと思う。35回かもしれない。『平ら』に此処までは来た。平らでよかった。

『「人生の意味深いとき - 池内紀」ベスト・エッセイ2020から』を読み返した。

元号と同じで、何ごとにも始まりがあれば終わりがある。いつまでも同じではなく、時とともに変化していく。たいていは惰性が入り、くり返しの安直さに慣れていく。

気がつくと、体が病んでいた。人とのかかわりが終わっていた。仕事がうわついたものになっていた。夫婦の仲に、修復のつかないヒビか入っていた。

しかし、当のそのときには何も気づかず、何も感じていなかった。それとも知らず、人生の意味深いときを生きてきた。思えば人生というしろものは、なんとも皮肉で、意地悪なものなのだ。》

池内氏は2019年に亡くなったのだから、最晩年の思いなのだろう。

振り返ればそういう思いになるのかもしれないが、わたしは振り返りたくないし、一切思い出したくない。全部消してス~と消えてしまいたい。

https://nprtheeconomistworld.hatenablog.com/entry/2021/03/25/084309