「自招侵害と正当防衛の成否 - 同志社大学教授十河太朗」法学教室2021年9月号

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「自招侵害と正当防衛の成否 - 同志社大学教授十河太朗」法学教室2021年9月号

横浜地裁令和3年3月19日判決
【論点】
自招侵害の事例は、どのような判断枠組みによって解決されるべきか。
〔参照条文〕刑36条1項
【事件概要】
被告人X(60歳、身長約165cm、体重約61.5kg)が歩道を歩いていたところ、前方から歩いてきたA(70歳、身長約155cm.体重約50.5kg)と互いの身体前面が接触しそうなほどの距離にまで近づいた。Xは、無言で通過したが、Aから「何だてめえ、このやろう。」と言われたため、「何。」と言い返した。すると、その約1秒後、XはAから右手拳で右頰上部付近を1回殴られた。これに対し、Xは、すぐさまAの顔を狙って左手拳を下から振り上げて、これをAの顔に当て、Aが転倒を始めるや、間髪を入れずに右手拳を突き出し、同じく顔に当てたら(本件暴行)。Aは、路上に転倒し、全治不詳の外傷性くも膜下出血等の障害を負った。Xも、Aの殴打により鼻血が出た。
Xは、傷害罪で起訴された。
【判旨】
〈無罪〉「Xは、Aによる侵害を予期していなかった上、......Aによる殴打行為を自招したとされるほどの言動をしたとはいえないから、......侵害の急迫性がなかったとか、反撃行為に出ることがおよそ許されず正当とされない状況に至っていたとは認められない。したがって、正当防衛状況の不存在は認められない」。「Xの攻撃意思は、せいぜい防衛の意思と併存し得る程度のそれであったというべきであり、......防衛の意思がなかったとは認められない」。「Xの本件暴行も、......Aによる殴打行為とその程度を大きく異にするものとはいえない。......本件暴行が防衛行為として許される程度を逸脱し、防衛手段としての相当性を欠くものとは認められない」。
「検察官は、......正当防衛の判断の枠組みについて、本件のような事案においては、正当防衛の特定の要件に拘泥するのではなく、XがAと行き合ってから同人への反撃を終えるまでの、双方の一連の言動や周囲の状況等を全般的、総合的に考慮して、『反撃行為に出ることが正当とされる状況における防衛のための行為』として許容されるものであるかを検討すべきであると主張し、上記主張の根拠として、最高裁判所平成20年5月20日第二小法廷決定があることを指摘した」。「検察官の上記主張が、......〔1〕正当防衛状況と、〔2〕その存在を前提とした防衛行為性(防衛の意思及び防衛行為の相当性)の要件とをおよそ区別せずに諸般の事情を全体的に考慮して正当防衛の成否を検討すべきであるとの趣旨であるとすれば、......正当防衛の判断を著しく不安定にするものであって、採用できない。......同決定においても、検討考慮の対象とされているのは、相手方の侵害行為とそれに先立つ被告人の暴行行為(挑発行為)、すなわち、上記〔1〕の要件に関する事情と解される」。

【解説】
1 本件では、正当防衛の成否が争われた。本判決は、Xの行為が正当防衛の各要件を充足するかどうかを事実関係に即して具体的に検討した上で正当防衛の成立を肯定しており、その点で参考になるが、本判決において更に興味深いのは、最決平成20・5・20刑集62巻6号1786頁(以下「平成20年決定」という)の判断枠組みに言及している点である。
Aの殴打はXの言動を契機に行われたともいえるため、自招侵害を理由に正当防衛の成立が否定されるかが争点の一つとなった。判例によると、積極的加害意思をもって侵害に臨んだときには急迫性の要件を欠く(最決昭和52・7・21刑集31巻4号747頁)ことから、自招行為の際に積極的加害意思があれば、急迫性の要件が否定される(東京高判昭和60・6・20高刑集38巻2号99頁)が、積極的加害意思なく自ら侵害を招いた場合については、平成20年決定において、不正の行為により自ら侵害を招いたときには原則として何らかの反撃行為に出ることが正当とされる状況でないとして正当防衛の成立が否定されている。Xには積極的加害意思はなかったことから、本判決は、平成20年決定の判断基準を用い、Xの言動は脅迫や侮辱といった不正な行為ではないことなどを理由に、Xにおいて反撃行為に出ることが正当とされない状況ではなかったとした。
2 平成20年決定は、正当防衛の各要件のどれが欠けるかということには触れずに正当防衛の成立を否定しており、また、同決定の調査官解説は、不正な自招行為と不正な侵害行為とが非常に密接な関係にある場合には正対不正の関係ともいうべき正当防衛を基礎付ける前提を基本的に欠くと述べている。(三浦透「判解」最判解刑事篇平成20年度434頁)。そこで、平成20年決定の趣旨からすれば、不正な行為により侵害を招いたために、何らかの反撃行為に出ることか正当とされる状況とはいえないときには、正当防衛の各要件を充足するかどうかを検討するまでもなく正当防衛の成立が否定されるとの見方も可能である。(大塚裕史ほか『基本刑法Ⅰ総論〔第3版〕199頁』参照)
3 一方、本判決は、正当防衛の成立要件を〔1〕正当防衛状況と〔2〕その存在を前提とした防衛行為性(防衛の意思及び防衛行為の相当性)に大別した上で、平成20年決定のいう「何らかの反撃行為に出ることが正当とされる状況」を〔1〕正当防衛状況の問題と位置づけている。仮に本判決のいう「正当防衛状況」が正当防衛の要件のうち「急迫不正の侵害に対して」の要件を意味しているとすれば、不正な行為により侵害を招いたときには、原則として正当防衛状況が存在せず、「急迫不正の侵害に対して」の要件を欠くというのが、平成20年決定の判断枠組みであるということになる(橋爪隆「判批」ジュリ1391号163頁参照)。
平成20年決定の趣旨については様々な理解がありうるところであり、本判決が上記のような理解を示したことは注目される。