「めざし - 立原正秋」日本の名随筆12味から

 

「めざし - 立原正秋」日本の名随筆12味から

五月の晴れた午前でもよい。あるいは十月の静かな午前でもよい。十時頃目をさまし、庭に七輪を持ちだし、前日生干にした目刺を焼いてみたまえ。五月なら目刺の銀色の肌に青葉が照りかえすだろう。十月なら庭の落葉の幽かな音がきけるだろう。
目刺はかるい脂をにじませながら焼きあがって行く。冷の茶碗酒を舌の上でころがしながらこの目刺を味わう。一杯の茶碗酒のあとは、一碗のめしになるが、香のものに味噌汁一碗、それに目刺と炭火であぶった焼海苔、焼卵、梅干一個がちょうどよい。近在に鶏を放し飼いしている農家があり、そこから卵をもとめてきたときは生卵を食卓にのせる。
目刺にかぎらず干物のこしらえかたに特別な技術が要るわけではない。こしらえかたは原始的であるほど良い干物が出来上がる。当世の干物は殆どが電気機械で干している。それを別にまずいというのではない。天日で干した方がおいしい、というのは私の感覚の問題である。しかし違いはある。電気で干したのは脂がにじみでないことがあるが、天日だと、一日あるいは半日太陽の光にさらされているあいだに脂がにじみでる。
鎌倉の魚屋でみる鰯には二種類ある。片口鰯と真鰯である。大きいのはすぐ判別できるが、小さいのは、この辺ではまとめて★[かたくち]とよんでいる。この★[かたくち]をもとめてきて、粗塩を振り、半日干すわけである。昔は藁を通して干したが、いまは、庭の萩の枝を折って目を通して干しあげる。★にならべるときもあるが、たいがいは紐で結んで高い木の枝につるしておく。まったく風がない日は困るが、といって強い風の日はなお困る。風で魚の表皮がかさかさに乾いてしまうからである。したがって微風の日がいちばんよい。こうして干した目刺はまことに品のよい味である。こんな時間の経過に私は風土に即した生活の彩りをみる。
ときたま、魚屋の店頭で目刺をみかけるが、なかには脂がにじんで黄色くなったのがある。古いし、品がない。汚れた中年女の目の前にみたような気がしてくる。目刺はあくまでも銀色であらねばならない。

仕事で疲れ、胃のぐあいがはかばかしくない朝は、オートメールを食卓にのせることもある。中国料理も好きだしフランス料理も好きである。しかし還って行くところは日本料理である。これは風土的な問題である。日本料理がいちばんおいしい、というのも中正でない意見だし、フランス料理がいちばんおいしい、というのも公正ではない。すべては風土である。
ところで、目刺のおいしさはどこにあるのだろう。これが問題である。これは、豆腐のおいしさはどこにあるのだろう、という質問と同じである。生干の目刺の味には奥行と幅がある。かるい脂がにじみでた目刺をくちにいれる。実にうまいなあ、と感じているうちにのどを通ってしまう。もっとも庶民的な味でありながら品がある。つまり着物にたとえればこれは木綿の味だろう。
三年ほど前の春、目刺をこしらえて庭の木につるしておいたところに、編集者が訪ねてきた。あれはなんですか、ときくので目刺だと答え、二把おろしてきて焼いて酒の肴にだしたら、こんなおいしい目刺ははじめてです、と感心していた。
こんなことを書くと、年中干物をこしらえているようにきこえるが、鎌倉にはおいしい干物をこしらえている店があるので、最近はめったにやらない。腰越の海岸に棲んでいた頃はよくやったが、最近は干物屋にこしらえさせることが多い。腰越ではよく猫にとられた。
そういえば、はじめて目刺をこしらえたのは二十数年前であった。初夏の頃、夕河岸の長谷海岸を歩いていたら、漁師達が★[かたくち]をあげていた。獲れすぎたとみえ漁師達は★[かたくち]をざつにあつかっていた。樽からはみ出て砂地にこぼれたのをもらってきて一夜干にした。あくる朝焼いたら実にうまかった。
もういちど、目刺のおいしさはどこにあるのだろう、と考えてみる。この味には重さがない。滞らない味である。だからあきないのだろう。しかし、脂がのりすぎた目刺は、ちょっと節度に欠けるように思える。やはり適度の脂、適度の大きさ、適度の干加減が、風姿のよい目刺になるわけである。