「冬日 - 高浜虚子」日本の名随筆20冬 から

 

冬日 - 高浜虚子」日本の名随筆20冬 から

けふも非常にいい天気で、枯れた柳の枝も真っ直つすぐに垂れて少しの風もなく、それに小春日和のいい天気が此間から続いて居てぶらぶら歩いて居ても少しの寒さをも感じない。けふは七宝会の忘年句会で、不忍池畔の写生をするといふので私はさいぜんから池の廻りを廻つたり、中径を通つたりしてぼつぼつ句を拾つて手帳に書きつけて居つたが、今しがた弁天横の茶店に会員の人々が団居して居つた処に出くはして暫く話をしてから又とぼとぼと独り歩いて池の端に出て、其処に在つたベンチに腰を卸した。

このベンチに腰を卸すといふことは、此頃の私には何時も大変な安堵を与へるのであつて、その腰を卸した瞬間の心持をいふと、気分がすーと丹田に納つて自分の周囲のすべてのものに煩はされず、雲や枯木が目の前にあるばかりで、拘束も無く恩愛もなく、家族も無く友人も無い、といったやうな心持になって、何ともいへない落付いた静かな心持になるのである。さうして自分が東京に出た上りの貧乏書生であつた時分、財布の中には余り小遣もなく、とぼとぼと上野公園などに散歩に来て、ベンチに腰を卸して、矢張り同じやうな心持になつて、じつと雲や枯木に対したことを思ひ出しもするのであつた。
併しそれには一つは生理的の関係も有るのであつて、此頃足に浮腫を覚えて歩くのにも立つて居るのにも草臥れを感じ易く、どかと腰を卸したときは救はれたやうな安堵したやうな感じがするのである。
汽車の二等よりも三等に乗った時の感じ、劇場の椅子の特等席よりも三等席に坐つた時の感じ、其等とも共通な或る感じも有るといへば有るのである。
日比谷公園でも上野の公園でも此ベンチの有難さは多くの人々に依って実験せられて居るのであらうが、中には帽子や荷物を枕にしてこの上で眠つてゐる人を見受けることがある。さういふ人は私達の心持よりももつと突き進めたもので、その椅子の上を自分の独占した天地と心得て何物にも煩はされず、何物にも拘束されず、自由な眠りに這入つて居るものでがなあらう。
私はぼんやりそんなことを考へつつ自他の区別さへ判らぬやうな心持になつて居たのであつたが。自分は俳句を作りつつあるのであるといふことに思ひ至つて又目の前に枝垂れて居る枯柳と大空の白雲とに目を移し、いつか本郷台の上に力の弱い冬の夕日が傾いてゐるのを見た。
立上がつて暫く又歩いて冬霞の濃いその夕日をじつと眺めてゐると、美しい紫の玉がぽこぽこと際限も無く生れて其夕日の傍から大空についついと延び拡がかつて行くのを見るのであつた。またたきすると忽ち消え失せるのであるが、又じつと見て居ると際限も無く生れて来て、その辺の大空一つぱいが紫の玉のかたまりとなるのであつた。
いつかコロンボに上陸した時非常な大夕焼に出逢つたのであつたが、熱帯の大夕焼はすさまじい勢で、わき立つ雲は底知れぬ深さの金色を湛へ、其中には仏陀があるかと覚えず凝視したのであつた。それに比べるとこの力ない冬の夕日の中には仏陀もなく耶蘇もをらず唯美しい紫の玉がぽこぽこと際限もなく湧き出る許りであつた。
ふり返つて見ると今迄腰かけてゐたベンチは遥かの道の傍に静かに横たはつてゐた。