「雨の夜 - 樋口一葉」日本の名随筆43雨 から

「雨の夜 - 樋口一葉」日本の名随筆43雨 から

庭の芭蕉のいと高やかに延びて、葉は垣根の上やがて五尺もこえつべし、今歳はいかなければ斯[か]くいつまでも丈のひくきなど言ひてしを夏の末つかた極めて暑かりしに唯[ただ]一日[ひとひ]ふつか、三日[みつか]とも数へずして驚くばかりに成[なり]ぬ、秋かぜ少しそよそよとすれば端[はし]のかたより果敢[はな]なげに破れて風情次第に淋しくなるほど雨の夜の音なひこれこそは哀れなれ、こまかき雨ははらはらと音して草村がくれ鳴くこほろぎのふしをも乱さず、風一しきり颯[さつ]と降りくるは彼の葉にばかり懸[かか]るかといたまし。雨は何時[いつ]も哀れなる中に秋はまして身にしむこと多かり、更けゆくままに灯火[ともしび]のかげなどうら淋しく、寝られぬ夜なれば臥床[ふしど]に入らんも詮なしとて小切れ入れたる畳紙[たたうがみ]とり出[い]だし、何とはなしに針をも取られぬ、未だ幼[いとけ]なくて伯母[をば]なる人に縫物ならひつる頃、衽先[おくみさき]、褄[つま]の形[なり]など六づかしう言はれし、いと恥かしうて是れ習ひ得ざらんぼどはと家に近き某[それ]の社[やしろ]に日参といふ事をなしける、思へば夫[そ]れも昔し成[なり]けり、をしへし人は苔の下になりて習ひとりし身は大方もの忘れしつ、斯[か]くたまさかに取出[とりいず]るにも指の先こわきやうにて、はかばかしうは得[え]も縫ひがたきを、彼の人あらば如何[いか]ばかり言ふ甲斐なく浅ましと思ふらん、など打返し其むかしの恋しうて無端[そぞろ]に袖もぬれそふ心地す、遠くより音して歩み来るやうなる雨、近き板戸に打つけの騒がしさ、いづれも淋しからぬかは、老いたる親の痩せたる肩もむとて、骨の手に当りたるも斯[かか]る夜はいとど心細さのやたなし。