「夢金(ゆめきん) - 矢野誠一」日本の名随筆14夢 から

「夢金(ゆめきん) - 矢野誠一」日本の名随筆14夢 から


いきなり「二百両ォ、百両ォ、欲しいィ」という、妙に具体的な寝言をいう船頭がでてくる。寝言なんてものは、ふつうはっきりしないことを「ムニャムニャ」と、のみ込むようにはくものだが、こう生々しい寝言を、しかも連夜にわたりいい続けるところをみると、熊蔵なるこの船頭、よっぽど金がほしいものと思われる。
落語『夢金』の冒頭である。

降りしきる雪の夜、「許せよ」と船宿にはいってきたのは、四十格好の侍。黒羽二重に五つ所紋つき、その黒が、すっかり焼けちまって羊羹色、紋は汚れてる。ところがこの侍、十七、八の女連れなのである。女のほうは、黄八丈に文金高島田。妹を連れて、芝居見物の帰りで、深川まで屋根船を出してほしいという。なにしろこの雪の中、出したくないところだが、寝言にまで「金が欲しいィ」とどなる欲の熊蔵、「酒手をはずむ」の一言に、船を出す。
大川の途中までくると、侍が船頭にもちかけた。
「あの女は、妹と申したがそうではない。この雪のなか、癪[しやく]を起こしていたのを介抱ごかしに連れて来たが、百両は持っている。殺して山分けにしようじゃないか」
おどろいたのは熊蔵、断りたくとも相手は侍だ。不承不承引き受けるが、中洲でなければやれないと、中洲に船をつけた。先に侍を舟からおろすと、竿をかえして川に逆戻り。侍を置いてきぼりにした熊蔵が、娘を家まで送りとどけると、たいへんなもてなしをうけたうえ、ほんの酒手と出されたのが、なんと二百両。
「へっッ、ありがとうございます。これ、使えますね、へへへ、こっちが百両、こっちが百両。二百両ォッ‥‥‥うううム」
夢にまでみた二百両だ。離してなるかと、にぎりしめたら、あまりの痛さに目が覚めた。にぎり睾丸[きんたま]をしていたのである。

夢のなかで、キンをにぎっていたから『夢金』。じつにどうも即物的な命題であるが、そこがまた、落語らしいおおらかさと、いえなくもない。

夢を扱った落語は、すこぶる多い。『心眼』『浮世床』『鼠穴』『夢の酒』など、みな名作のほまれ高いものだ。落語は、現実、非現実を問わず、時間、空間を超越した世界を、たったひとりで語ることによって描いてきかせる芸だから、夢は、一面でかなり役立つ武器となる。『夢の酒』なんてはなしは、それでも聴き手の側に、ああこれは夢の場面なんだなとさとらせるような演じ方をするが、この『夢金』や『鼠穴』などは、聴き手の側に、夢だと思われてしまったら、もう興味は半減してしまうはなしだ。それこそ夢中になってきいていて、タネ明かしをされたときに、「なんだ、夢だったのか」と、聴き手の側が、ほっとすると同時に、だまされた快感に酔えたとき、この種のはなしの成功がある。
ところが、落語は、いつも新しいはなしを封切ってばかりいるわけではない。芝居好きが、同じ狂言を何度でも見に出かけるように、落語の客は、おなじはなしを何度でもきく。むろん、なかには初めてそのはなしに接する客もあろうが、マクラからサゲまで、どんな物語が展開されるのか、先刻承知している客は少なくない。そうした客に、「じつは夢でした」というのは通用しない。この『夢金』という落語が、夢によって構成されていることを、きき手にたいし、秘密にしておけるのは、わずかに一回こっきりなのである。 
ところが、落語家は、そのことにはさしてこだわってはいないようにみえる。だいいち題名からして『夢金』と、夢であることを暗示しているし、そのつど、まったく初めてそのはなしをきく客ばかりを、集められるものではない。このあたりに、落語という芸が、物語への興味によってではなく、その演者の芸への関心によって成立している事実が実感されるのだ。
けっして成功したとはいいかねるのだが、ある若い落語家が、自分の会でこのはなしを演じた際、あらかじめきき手の側に夢を夢と知らせてしまう演出を試みたことがある。熊蔵が、侍と女をのせて、船を出しはじめると、高座の照明を、溶暗して演者の姿だけをスポットが照らす。そこへすのこから雪をふんだんに降らすのである。二百両の酒手をもらい喜んでから、目が覚めるところで、一挙にもとの明るさに戻してみせる。出来のほうはもちろんのこと、この演出自体にも疑問なしとしない部分が多すぎたが、物語の底をわっても、自分の芸だけできかせようという、いかにも若手らしい意気ごみは、なかなか気持ちがよかったのを覚えている。

江戸時代、船は重要な交通機関であった。当然、この機関の一翼をになう運送業として発達した船宿だが、町人の経済力の上昇で、遊びのほうの面に欠かせぬ存在に変わっていった。遊里へ通う客を運ぶばかりか、その仲介から芸者の世話までやるようになったという。
こうなると、この猪牙[ちよき]船や屋根船の船頭などは、あか抜けした、いなせな仕事である。きりッとした二枚目がふさわしい。芸者を乗せることもしばしばで、ただでさえ色男の船頭とあっては、間違いをおこす芸者も出かねないと、船頭と女がひとつ船室にはいるのは、きつい御法度になったというのもうなずける。その禁を破るのが、『船徳』のオリジナルで知られる『お初徳兵衛浮名の桟橋』だ。船頭は、道楽が過ぎて勘当になった若旦那の落ちつき先に、いかにもふさわしい仕事なのである。 

だが、どんなものにも例外はあるもので、この『夢金』の船頭は、人呼んで欲の熊蔵、名前からして色男の名前じゃない。ふだんから、金が欲しい、金が欲しいと思っているから、夢のなかまで金勘定なども、あまり二枚目のやることじゃない。おまけにひどい疝気[せんき]もち。このどう考えても、格好よい江戸前の船頭といいかねる熊蔵が、また夢のなかでは、ばかにいい役どこを演じるのが面白い。
夢となると、まず思いうかぶひとの名に、フロイトがある。一九三九年に没した、精神分析創始者である。このひと、夢は五臓のつかれならぬ、「願望の実現」または「願望の変形された実現」とみなしたものだが、熊蔵が、あれほど欲しい欲しいと願っていた二百両を、難なく手にいれたあたり、まさしく「願望の実現」ではないか。さらに、武骨で、どう考えても二枚目とはいいかねる身が、悪侍を相手に娘を救い出すという、身の程を知らぬ、これ以上の二枚目はないといわれるような役を、夢のなかで演ずるなどは、あれで熊蔵の深層心理には、二枚目への憧れがあったに相違なく、これまた「願望の実現」でなくてなんであろう。どうやら、わが落語、フロイトの学説をもってしても、明快に説明がつくあたりが妙である。

『夢金』というはなしに欠くことのできぬものが、雪降りの景色である。おそらくは、山谷堀あたりと推定される船宿から、ずっと牡丹雪降りしきるなかで展開される、雪のドラマなのである。船上で侍から、殺人の片棒をもつことをもちかけられたり、中州で女を救い出したりが、雪を背景にすることで、余計にその迫力を増すのである。
前述の若い落語家が、ここで具体的に真綿をちぎったような雪を降らせて見せた。その気持ちは、おそらく雪がこのはなしに欠くことのできぬ背景であることを、なんとかしめしたかったからにちがいない。だが、それは、あくまで芸でしめすべき領域であって、そのへんが、落語の、芝居とはまるで異なる点なのである。
それにしても、その真綿をちぎったような雪が、東京には、年々降らなくなってきたような気がするのはどうしたことか。気象庁の調べだと、いまでも東京には年平均十三日は雪が降る勘定になっているし、近くは昭和四十二年二月十一日、都心部で四センチ、新宿八センチなんて記録もあるのだが、実感として、東京は雪の降らぬ街になってしまった。『夢金』のごとき、夜の大川の雪景色を、一度ゆっくりながめてみたいものである。
酒のめばいとど寝られぬ夜の雪 芭蕉
いくたびか雪の深さをたづねけり 正岡子規
限りなく降る雪何をもたらすや 西東三鬼
降る雪や明治は遠くなりにけり 中村草田男
つひに見ず深夜の除雪人夫の顔 細見綾子