「「死」をちょっとだけ考える - 橋本治」いつまでも若いと思うなよ から

 

「「死」をちょっとだけ考える - 橋本治」いつまでも若いと思うなよ から

「死ぬことがこわくないのか?」と問われれば、「こわくない」とは言えない。だからといって「こわい」とも言えない。その答は正直なところ、「よくわからない」だ。
三十代の前半の頃、「死」を思ってこわくなったことがあった。「自分はまだなんにもしていない、このままで終わらせられるのはいやだ」と思って、「死」ではなく、「生」が中断されることを思ってこわかった。どちらも同じことのようだが、「死」の方向から「死」を考えるのと、「生」の方向から「死」を考えるのは違う。私はどうも、「生」の方向からしか「死」を考えられない。
三十代の後半になって、「自分のやるべきこと」を見つけてそれにばかり邁進するようになったのはいいが、「こんなに仕事ばっかりしていてなにがおもしろいんだろう?自分はもっといい加減な人間だったはずなのに」と思って、「こなしきれない量の仕事を抱えたまま死んで行くのはいやだ」と思った。私の場合は、考え始めるとその対処法がわりとあっさり見つかってしまうのだけれども、その「仕事はっかりじゃいやだ」と思ったときは、「じゃ、この人生は仕事だけということにして、死んで生まれ変わったら遊んでることにしよう」と思った。
私は別に輪廻転生を信じているわけではないが、仏教はそういう考え方を前提にしているから、「そういう考え方もあるな」と思った。すごく長期の単位で「明日があるさ」と思っただけだが、そう考えたら「仕事だけで死ぬ」でもそういやではなくなった。ものは考えようだ。
しかし、そう考えてまた、四十代を過ぎたら変わって来た。「この人生では仕事だけで、自分のやるべきノルマを全部果たして、それで死んだら次の人生ではただ遊んでよう」と思ったのだが、私の考えた「自分のノルマ」はそう簡単に終わりそうもない。三百年くらい生きたら終わるかもしれないが、別にそんな寿命は望めないと思って、「だったら“明日”は来ないじゃん」と理解した。「困ったな」と思ったが、その対処法はすぐに頭に浮かんだ。「そんなになんでもかんでも抱え込んで、“自分のノルマだ”なんて思わなきゃいいじゃない」と考えればよかったのだ。
本当にそね通りなので、自分のやることが意味のあることなら、「やり残したこと」を誰かが拾ってやってくれる。意味のないことだったら、そのまま忘れられる。でもそれは、死んだ後でなければ分からない。だから、「死という先のことなんか考えずに、今のことだけ考えとく」になる。どう死ぬのかは分からないが、死んだら死んだで、誰かがなんかの処置をしてくれると思うしかない。自分の葬式のことをあれこれ考えたって、いざその時には自分がもう死んでいるのだから、どうなるのか分からない。
猫が死ぬことに関して羞恥心を持って、自分から進んで土になりに行くのは、猫が集団で社会生活を営んでいなくて、死んでも他の猫が葬式をやってくれるわけではないからだ。人として生まれて、最後まで他人を拒否したり信用しないままでいるのは、あまりいいことじゃないように思う。人は独りで死んで行くのかもしれないが、土の上に床を張った人間は、やはり人の社会の中で死んで行くのだから、そう思えばそうそう「孤立無縁」というわけでもない。
クロが死んで少したった後の子供の頃、「自分はいつ眠ってしまうのだろう?」ということを考えたことがあった。布団の中に入って、横になっていてもまだ目は覚めていて、それがいつの間にか眠ってしまっている。そのことが不思議で、「起きているのと眠っているの境はどこにあるんだろう?」と思った。それで二日ばかり、「自分はいつ眠くなるんだろう?」と思って布団の中で頑張って起きていたが、「眠る」ということは意識がなくなることで、意識のなくなった頭で「私は今意識がなくなりました」などと認識することは出来ない。だから、「起きていると寝ているの境界線は分からないんだ」と思った。
ただそれだけの話だが、ずっと後になって、「生きる」と「死ぬ」の境目は、ピッピッピッという体に取りつけられた装置の電波でなら分かるが、「眠る」と「起きている」の境目が当人には分からないのと同じように、分からないものなんじゃないかと思った。
この件に関しては、まだ私は死んだことがないので断言は出来ないが、「いつの間にか眠っちゃった」と同じように、「いつの間にか死んじゃった」なんじゃないかと思う。「体が痛くて眠れない」と思っていても、死ぬ瞬間はその痛みがなくなるだろう。なにしろ死ぬということは、感覚を失ってしまうことなのだから。
他人の葬式に行って、棺の中に横たわっている仏様を見ていつも思う。「ああ、もう頑張らなくていいんだなァ」と。「死ぬとゆっくり出来る」と私は思っているから、安らかに眠っている仏様を見ると「羨ましいな」と思う。
結局私は「生」の方向からでしか「死」を考えられない人間で、「死」というものは、「生」の方向から考えても「考えるのは無駄だよ」という答えしかくれないものかと思うのでした。