「散歩の範囲 狭くて驚き - 黒井千次」ベスト・エッセイ2020から

 

「散歩の範囲 狭くて驚き - 黒井千次」ベスト・エッセイ2020から

時折、あれ、と思って立ち止まることがある。これまでほとんど考えもしなかったようなことに不安を覚え、どうしよう、と迷いが生じる。
たとえば、電車や飛行機に乗って少し離れた所まで一人で出かけのばならぬような場合である。一人で行けるだろうか、大丈夫だろうか、と心配している自分がいるのに気づく。
少し前までは、そんな不安を感じることはなかった。外国とまでは言わなくても、国内の遠隔地に出かける時なども、旅は一人が気楽でよい、と考えてさっさと支度に取りかかったものであったのに、最近は、待てよと一瞬迷うようになった。漠とした不安が身の底で揺れているゆうな気がする。不安の正体は、どうやら自分の体力の不足とか、気力の衰えとかに対する怯[おび]えに発しているらしい。大丈夫だろうか、無事に帰って来られるだろうか、と心配している気配がある。事故や急病といった明確な事態の発生を心配しているわけではない。それほど形のはっきりした不安ではないもっと漠とした自信の無さが、ひそかに生れてしまっている。その結果、ここより先はもうダメ、といった立入禁止の領域を自分で作ってしまう傾向がある。
いささか情ない話だが、そんなふうに考えるのが自然である、と思われる。そしてこのような姿勢が自分の胸に生れたのは、なにか特別の事態に旅先でぶつかったとか、事故が身近に発生したためとかいうのではない。むしろ、さりげない日常の暮しの中で出会う体験が積み重なって、いつか不安の領域を生み出したのではなかろうか。
日常生活の中でぶつかる瑣事とは、たとえば日々の散歩を巡って感じることなどである。
ある時は、何も考えずに散歩の足を少しのばしてやや長い坂を下ったところ、帰りにその坂を登ろうとするとそれが困難で、タクシーでも呼ばなければ帰れないのではないかと慌てる失敗をした。その折には遠廻りりしてなんとか無事に帰宅したのだが、坂を下りる時には登りのことを考えておかねばならぬ、と痛感した。
またある時は、これも散歩についてだが、ふと気がつくと自分の歩く範囲が著しく縮んで小さくなってしまっているのに驚いた。かつては何も考えずに下駄を履いて出かけていたキウイの畑や、幾つかの学校が並ぶ土地などがごく自然の散歩の行先となっていたのに、今の感覚では、そこはバスに乗るか、タクシーでも利用しなければ容易に出向く場所とはならぬことを知らされた。たまに車に乗せてもらってその辺りを走ると、自分は以前、本当にこんな所まで歩きまわっていたのか、と容易には信じられぬ気分を味うほどである。
これは家から出て外に向う折の話だが、同じようなことは他の様々の場面でも起っているに違いない。
昔は何でもなかったようなささやかなことが、知らぬ間に、力を尽くしても容易に遂行出来ぬ難事となってしまっている。自分を取り巻く状況が変ったわけではない。こちらが心身ともに老化して力を失っただけのことだろう。
客観的にはそうであっても、しかし老いたる本人にとって事態は深刻である。なにやら自分には禁じられた地帯が自分を取り囲んでいるらしいのだから。しかもその黒い帯にも似た領域は少しずつ広がる気配を示している。
このまま動きがとれなくなったらどうしよう-。
生きる場が狭いことは、深さを増すことにでもなればいいのだが。