「大根卸し - 團伊玖磨」朝日文庫 重ねてパイプのけむり から

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「大根卸し - 團伊玖磨朝日文庫 重ねてパイプのけむり から

大根卸しの上に、生卵を割って落とし、醤油を少し許[ばか]り滴[したた]らせ、掻き廻して食う。実に美味くて美味くて、どうにも成らぬ。炊きたての熱い御飯の上にそれをかけて、これを又掻き廻して食う。それが又美味くて美味くてどうにも成らぬ。困った事と言わねばならぬ。
何故困るかと言うに、こんな事をしていては、そうで無くとも食い過ぎる御飯の量が矢鱈に増えるからであって、そうで無くとも御飯の食い過ぎのために中性脂肪が並みの人間の四倍もあって、まあ、労働をなさる御仕事ですから、少しは良いのでしょうが、貴方のように三度三度の御食事に御飯を丼に五杯も七杯も召し上がるのは考えものです、少しお控えになっては如何なものでしょう、との注意を御医者様から受けている身にとっては、大根卸しに生卵を割って落とし、醤油を少し許り滴らせて掻き廻し、それを炊きたての御飯の上にかけて、それを又掻き廻して食うのが美味くて美味くてどうにも成らぬ仕儀は、誠に困却事であり、由々しき問題と言わねばならなぬ。それに生卵は、巷間伝わるところに依ればコレステロールの塊りのようなものだそうで、コレステロールの方は並みの人の二倍位しか無いから、さして心配するにも及ばないけれども、これ又身体を思えば良かろう筈は無い。
どうしてこんなものを矢鱈に美味がるようになったかと言えば、多分にこれは親の愛に責任があって、子供の頃、乾性肋膜炎という、今で言う肺病に取り憑かれて青瓢箪のように瘠せ衰え、何事にも無気力、何の希望も無いような顔をして上目遣いに大人達を盗み見ながらうろうろこそこそしていた僕に、何とかして輝やかしい健康を取り戻させようと考えた母親が、他のものには箸を伸ばそうとしない子供が、大根卸しに生卵を割って落とし、醤油を少し許り滴らせて炊きたての熱い御飯の上にかけてそれを又掻き廻して与えたところ、そればかりは美味い美味いと喜んで箸を動かす我が子を見て、喜こびの余り躍り上がり、これだ、これです、これにて我が児に取り憑いた肺病を撃退せむ。撃ちして止まむとばかり、白襷に長刀[なぎなた]を手挟む勢いで、小学三年の頃から始まって中学二年に至る間の毎朝の食膳に、大根卸しに生卵を割って落とし、醤油を少し許り滴らせて掻き廻し、炊きたての熱い御飯の上にそれをかけて供して呉れたのがそもそもこの美味が僕の舌に定着した始まりであった。誠に山よりも高く、海よりも深いは母の恩、六年間、二千百九十回に渉る大根卸しに生卵の朝食は、肺病神を僕の身体から追い払ったばかりで無く、何とも彼とも我乍ら驚く程の頑健な少年がすっくとばかり母の前に誕生した。母の喜こびは一方成らぬものだった。従って僕にとっては、大根卸しに生卵を割って落とし、醤油を少し許り滴らせて掻き廻し、それを炊きたての御飯にかけて喫するこの食品は、海よりも深い母の慈愛をしみじみ感じる味であり、従って、これを喫する前には、瞬間威儀を正し、合掌して母に感謝を捧げてから箸を執り、美味に困却しながら数杯の丼飯を喫し終えるのが仕来たりである。