「ぼくのマスターピース & のんびりいくさ - ムッシュかまやつ」日経BP ムッシュ! から

 

「ぼくのマスターピース & のんびりいくさ - ムッシュかまやつ」日経BP ムッシュ! から

ぼくのマスターピース

最近も、オリジナル曲を相変わらず作ってみたりするんだけれど、どうもうまくいかない。血液の流れとか、パッションとか、そういうポイントがあるとすると、どうも力が落ちているような気がする。いまもいろんなバンドがカバーしてくれる「バンバンバン」とか「フリフリ」は、スリーコードの、自分的には愚かな曲なんだけど、ああいうのを作ったときは、ぼくのそばにいい神様がいてくれたんだと思う。
その話をユーミンにしたら、ユーミンは、「いいわね、その表現」っていってくれたけれど、絶対にそうだと思う。だから、似たような曲を作ろうとしたら、その時点ですでに間違っているし、だからといって、「まったく違うものを」などと考えて自分のなかにないものを作ろうとするのも間違っている。なかなか難しいものだ。
ぼくが最後に作ったいい曲は「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」なのかなという気がしているが、何かの拍子に、また一、二曲いいものができるかもしれない。それが売れる売れないに関係なく。「ゴロワーズ」だってそうだった。発表して二十年くらい経ってから、あちこちで取り上げられるようになったのだから。
もし自分でいい曲ができないのだったら、ひとの曲をやったほうが新鮮でいい。セルフ・カバーにしろ、他人の曲のカバーにしろ、やってみたいなと思う曲はいろいろある。たとえばユーミンの「中央フリーウェイ」を、アコースティック・ギターでへんてこなコードを使ってやってみたい。いつか、自分の好きな曲を、いろいろこねくりまわして、頭をひねりながら、自分の好きなようにアルバムを作りたいと思っている。そのなかの曲の一曲だな、「中央フリーウェイ」は。自分の曲なら「どうにかなるさ」とかね。はっぴいえんどの曲もやってみたいな。小坂忠さんの「からす」も。
これまで、まがりなりにも好きなことをやってこられたということについては、「おかげさまで」という言葉しかない。五十年近くやっていて、全盛期といえるほどの時代がなかったから、いまでもなんとか音楽シーンの端っこにいられるのかもしれないが……。 
かつて、知人の紹介で、来日中のドクター・ジョンを楽屋に訪ねたことがある。ドクター・ジョンが「きみはいくつ?」と聞くから、「だいたいあなたと同い年だ」と答えたら、サインに「KEEP ON!」って書いてくれた。それがかっこよくてね。現在進行形なのだ。キープ・オンというのは、B.Bキングもよく使う言葉である。それから、ぼくもそれをいただくことにした。サインを頼まれると、その言葉を書き添える。
最近も、キンクスのトリビュート・アルバム『キンキー・ブート』に参加したり、渋谷の「オンエア」でやったローリング・ストーンズのトリビュート・ライブに出演したりしたのだが、共演したバンドの人たちが、昔のスパイダースのレコードを持って「サインしてくれ」っていってきたりする。うれしいやらてれくさいやら。コレクターズみたいな立派なバンドのメンバーが子どもみたいにサインをもらいにくると、恥ずかしくなってしまう。なにか申し訳ないみたいな。でも、とてもうれしいことではある。ぼくにもそういうところがいまだにあるから。そういうときに「キープ・オン・ロック!」と書くと、けっこう喜んでもらえるのだ。
音楽の世界は、いってみれば“明日なき世界”だから、ミュージシャンなら誰しも「いつまで続けられるのかなあ」とたまには考えるはずだ。べつに努力しているというわけではなく、ほかに何もできないとか、細かくいえば根底にはいろいろあるのだが、ラッキーにもいま続けられているということ自体が、「続いている」という事実が、重要なのだ。
だから、「キープ・オン」という言葉が好きなのだ。ぼくにしてみれば、いつも自分は途上にある。そういう気持ちがないとやっていられない。あと一年でやめます、というわけにもいかないし、目的意識がはっきりしていないんだから、やらざるを得ない。がむしゃらにただやっているだけ。だから「キープ・オン・ゴーイング」、「キープ・オン・ロッキン」なのである。何がロックなのだかわからないけれど。
やはり音楽が好きだから-そういうことになるのだろう。
ある意味ポジティブなのかもね、ぼくは。だから挫折知らずなのかもしれない。
「おまえ鈍感なだけじゃないの」っていう人もいるけれど。
まあいいじゃん。
「とぼけた顔してババンバン」だから。

 

のんびりいくさ

ひとに芸を見せたり、歌をうたって聞かせるなんて、恥ずかしいことだ、と芸能にかかわる人の多くは口にする。
人知れず好きなことをやるというのがカッコいいのであって、それに反することをしているのだから、肩身が狭い。まして、自分のことをあれこれ語るなど……自分が何者だかわからないといいながら死んでしまうのが、いちばん幸せだと思っているぼくにとっては一大事だった。ひとにキャラクター・イメージを植えつけてしまったとたん、自分ではなくなってしまう。だから、いま、ちょっと損した気分だ。
ただ、年はとるもので、現在のぼくは自分自身のなかでのバランス感覚を身につけている。なにかをしたら、それに見合うだけのものをキチンと得るようにしているから、この本を出したことによって、それはそれで、なにかいいことがあるのかもしれない。
新しいもの好きの好奇心で、これといったお手本もなく、幸運にもここまでやり続けてきた。世の中の人が見たら、ずいぶん無駄なことやつまらないことをしているようでも、自分自身のなかではけっしてそんなことはない。けっこう充実しているのだ。世間の価値観に合わせる必要はない。逆に、世の中、自己中心的に見たほうがいい。
社会的な価値観を気にしていると、変化に対して不安になる。たとえばカネや名誉で自分を測る人は、かつては財産があったのに、とか、昔はそれなりの地位に就いていたのに、いうことだけで落ち込んでしまう。
ぼくも、こういう仕事がら、ずっと下のほうから見上げていた神様のような人が、すごい勢いで落ちていくのを何度も目の当たりにした。そういう悲哀を感じるのは、もう十分。間に合っている。
それより、自分のなかで、プライドを捨てず、自然体でいられるギリギリのラインを設定して、それより下にはいかないと決めてしまえば、ひとになんといわれようと、自分のデッドラインさえ超えていれば、デカイ顔していられるのだ。ぼくの場合、自分に甘いから、そのラインをかなり下に設定して、自己中心主義でやってきた。世の中の価値観に合わせたらやっていけないし、他人のスピードに合わせる必要もない。
人生たかだか八十年から長くて百年。地球の歴史から見れば、電波の波長のようなものだ。ぼくは、そのスピードをできるだけ遅くして、まだ戦いを挑めるだけの自分なりの時間を作りたいと思っている。自己中心的に生きていれば、三ヵ月を一年くらいに過ごすことだってできる。社会的に大成功している人のスピードに合わせてしまったら、一年、いや一生などアッという間だろう。自分の感性が傷まないように、上手にスイッチのオン/オフを切り替え、自分なりの時間をキープすべきだと思う。
ただ、ケンカはしない。ひとを傷つけるのもいやだし、もちろん傷つけられるのもいやだ。ひとから見ればつまらないことでも、自分の価値観を大切にしたいだけのことだ。
とはいえ、そういう自己中心的な生き方をしてきたから、音楽の仕事にまったく関係のないうちの奥さんや、かつてのスパイダースのメンバーをはじめ、周囲にはずいぶん迷惑をかけてきたし、いまもかけていることだろう。田辺昭知さんはもちろん、マチャアキもぼくの知らないところで苦労していたと思う。あのころは、いやになるとプイッといなくなってしまったり、ステージでもギターを弾かずにそっぽ向いてしまったものだ。おかげで、いまは大変。そういう人じゃないんだっていわれるために、日々努力しています。
周囲の人々の温かい目があったから、けっこう自由にやってこられた。いや、冗談ではなく、この歳になると本当にそう思う。
この本に登場していただいた多くの方々に、感謝。勝手にお名前を使わせていただいたうえ、一部、敬称を略させていただいたところもある。ご寛恕のほど。
前々からこの本の企画を温め、今回、構成を手がけた恩蔵茂さん、さまざまな手配をしてくれたグリーン・プレスの清水光昭さんと、ぼくの事務所ケイダッシュ大野豊和さん、そして本の形にしてくれた日経BP社の柳瀬博一さんを含め、これまでお世話になった皆さんへ、最後にひと言。
キープ・オン・ロックンロール!