(巻三十五)冬花火この骨壺といふ個室(千葉信子)

(巻三十五)冬花火この骨壺といふ個室(千葉信子)

12月11日日曜日

ときどき見かける死後の自分を詠んだ句でしょうか。

わたしの顔が覗かれており白菊黄菊(條原信久)

死んでから先が永そう冬ざくら(桑原三郎)

なんて句もございました。

私のスタンスは

あの世などあつてたまるか仏の座(拙句)

です。

昨晩は眠くて10時に就寝。BBCのCrowdScienceの今週の番組を聴きながら寝ようと思ったが5分も経たないうちに眠りこけたようだ。

https://www.bbc.co.uk/programmes/w3ct3j7x

2時半ころ、第一回目の睡眠から覚めて小用を済ませ30分ほど机で句帳など捲り、体が冷えてきたので蒲団に入る。再びBBCを耳にし、眠りに落ちる。熟睡したわけではないが、目覚まし音に気付かず、彼奴の不機嫌な声に起こされた。

朝家事。箪笥の上の埃払いの後、エアコンのフィルター掃除、掃除機がけ。年末大掃除の一環としての玄関、玄関前の掃き掃除。

部屋まるく掃いて男の冬支度(大西一冬)

一息入れてから、生協へ米と油を買いに行った。米はいつもの佐渡コシヒカリ無洗米を迷わず見つけたが、油は並べ方を変えたのと値段が上がったのとでいつもの商品に迷い、今日は見送り帰宅後それの写真を撮っておいた。

生協の帰りに駐車場に玩具猫のなれの果てのトイちゃんがいたのでスナックをふるまっていたら、トイちゃんたちに食事を与えているここの猫好きおばさんやってきた。「一生懸命食べてますね⁉いつもありがとうございます。」と挨拶された。これですよとスナックの袋を見せたら一応安心したようだ。

昼飯前に細君が俳壇を届けてくれた。

鯖雲やひとに疲れし午後三時(漆川夕)

こんなにも減らして買ふや年賀状(藤巻幸雄)

あと愛があれば勝組大根食ぶ(上西左大信)

一日の裏側怖し秋の夕(千草子)

を書き留めた。

一句目は、そんな生活から離れ3年だと歓びを再確認したよ。

ニ句目は、まあそういうことで殆ど世を捨てたこと(人付き合いを止めたこと)の歓びを再確認したよ。

三句目は、うちに居ても邪魔にされない程度の愛があるのまあよかったとその歓びを再確認したよ。

四句目は、いいことばかりないからね!という戒めかな。少なくとも悪いことはまだ起こっていない歓びを再確認したよ。

昼飯食って一息入れて、散歩に出かけた。出かけた時は小春日だったが図書館を過ぎたあたりから風向きが変わり空気が冷えた。急ぎ襟巻きを巻く。稲荷のコンちゃんはいつものところに居て、今日は起き上がり、スナックを欲しがる。そこから都住3へ向かう。サンちゃん、フジちゃんは不在。クロちゃんがいつもの階段下で待っていた。今日は二袋で納得、身繕いを始めた。

そこから白鳥生協へ歩き二割引きの寿司でカンチュウハイを干す。

帰宅し、鰤を焼く。

願い事-涅槃寂滅です。要は延命医療に手を出すか出さないかだな。緩和医療にはすがるだろう。いずれも治らないのだから治療にはならない?

らもさんのアル中話を読んで周五郎「酒みずく - 山本周五郎」と高橋三千綱「個人再生を夢見て - 高橋三千綱」のアル中話を読み返してみた。三千綱さんは明るいからエロス系たが、周五郎はタナトスの気があるかな。

「酒みずく - 山本周五郎新潮文庫 今宵もウイスキー から

私はいま二週間以上も酒びたりになっている。いま書いている仕事のためとは云わない、けれどもこの仕事は、半年もまえから計算し、精密なコンティニユイティを作り、それを交響楽と同じオーケストラ形式にまとめあげた。そうして書きだしたのだが、作中の人物は半年以上ものつきあいであり、誰が出て来てもみな古馴染で、小さな疣[いぼ]や痣[あざ]や、めしの喰べかたや笑い声までがわかっていて、その男、または女の出番になると、うんざりして机の前から逃げだすか、酒で神経を痺[しび]れさせるほかはなくなるのである。いろいろ狼狽してみた。三浦半島へいったり、藤沢でだらしない遊びをし、二人の大切な友人に迷惑をかけたり、また華やかな街で五日も沈没したりした。

はたから見れば、これらはたのしい贅沢としかうつらないだろうが、当人は一刻々々が死ぬ苦しみなのだ。声にして「ああ死んじまいたい」と、のたうちながら喚[わめ]いたこともあった。

- 酒みずく、という吉井勇の歌があった。酒びたりになるほかに、この世に生きている価値はない、というような意味の歌だったと思うが、もちろん正確ではない。違った意味の歌だったかもしれないが、いまの私にはそうとしか思えないし、いまの自分をそっくりあらわしているように思えるのだ。

朝はたいてい七時まえに眼がさめる。すぐにシャワーを浴びて、仕事場にはいるなり、サントリー白札をストレートで一杯、次はソーダか水割りにして啜[すす]りながら、へたくそな原稿にとりかかる。原稿はずんずん進むけれども実感がない、嘘を書いているようで、躯じゅうに毒が詰まったような、不快感に包まれてしまう。私はそれをなだめるために、水割りを重ね、テープ・レコードの古典的通俗的な曲をかけるか、ベッドへもぐり込んでしまう。いっそこの瞬間に死んじまえばいいのに、などと独り呟きながら。念には及ばないだろうが、死にたいなどと云う人間ほど、いざとなると死を恐れるあまり、じたばたとみれんな醜態を曝[さら]すものだという。どんな死にかたをしようと、人間の死ということに変りはないのだが、世のひとびとはそこに大きな関心をもち、褒貶[ほうへん]をあげつらう。やがて自分たちも死ぬのだ、ということを忘れて。

さて、ひるになるが食欲はまったくない。そこで客が来れば大いに歓談してグラスの数をかさね、来なければ陰気な気分で、やはり水割りのグラスをかさねるわけである。どうにもやりきれないときには、しきりに電話をかけて友人を呼ぶのだが、みな仕事を持っているのでなかなか「うん」とは云わない。

「人間はいつ死ぬかわかりゃしないのに」と私は独りで呟く、「そんなにいそがしがってなんの得があるんだろう、みんなあんまり利巧じゃないな」

仕事に関係のある友人以外には会わないことにしている。演劇、映画、放送局の諸氏にも原則として会わない。これらの諸氏は私がどう抵抗しようと、あいそよく笑うだけで、やりたいと思いきめたものは必ずやってしまうのである。これでは会って酒を飲み、大いに語ることはお互いの時間つぶしにすぎないし、こちらは一杯くわされたような気分になるだけだからだ。自然、友人は仕事関係の若い人に限られるし、かれらは仕事のほうが面白いから、私のような下り坂になった作者に会うのは気ぶっせいなのだろう。そこで私はまたグラスをかさねるか、街へでかけるかするのである。

午後四時になると、かみさんが晩めしの支度をしにあらわれる。私は相当以上に酔っているし、依然として食欲はないが、わが伴侶のあらわれたことで勇ましくなり、原稿を片づけてまずビールをあけてもらう。本当の気持ちはそれどころではない、渋滞して動かない仕事、その仕上がりを待ちかねている若い友、さらにその若い友のうしろで舌打ちをしている偉い人、その他もろもろの、印刷工場の植字さんの顔までが眼の前からはなれないのだ。

「もうぎりぎりです」とか、「なにをうだうだしているんだ」とか、「どうせろくなものも書けないくせに」」などと、怒っている人たちの声まで聞こえるように感じられるのである。

私のかみさんは料理の名手で、特に数種の洋風料理では一流コックを凌ぐ腕前を持っている。これは私ののろけではなく、若い友人たちも認めるところであるが - 待てよ、かれらは私がうまいと云うので、単に調子を合わせているだけかもしれないぞ、などと思いながらビールをやめて、また水割りに変えるのである。

私の胃は米とは不和で、パンかコーン類かオートミールかポテトを好む。一日一度の夕食を簡単に片づけると、一時間ばかりベッドにもぐり込み、起きるとまた水割りを啜りだす。かみさんは十時か十一時に自宅へ帰るが、あとはまた独りで水割りの濃いのを啜り、睡眠剤と酔いとで眼をあいていられなくなると、ようやく寝床へもぐり込む、といったぐあいである。それで終ればいいが、夜半すぎてから訪問者があるのには閉口する。優雅なる女性が一人、ときには二人伴[づ]れで、ゆうゆうと侵入して来、電燈をつけて私の醜い寝顔を観賞し、そのけはいを感じて眼ざめると、謝罪めいたことを云って景気よく飲み始めるのだ。

十月に二週間ほど酒をやめたことがあった。友人が眼の前で飲んでいても欲しくないし、水がなによりうまいこと、そしてそばのうまいことを知ってびっくりした。門馬義久から教訓されて、そばを喰べ始めてから五、六年になるだろうが、これまでは一時の腹ふさげでしかなかった。それが初めて、そばとはうまいものだということに気づいたのである。

だが、それはそれだけのはなしだ。水がうまいことにふしぎはないし、そばがうまいことも昔からわかりきっていたにちがいない。そんなことに感心しているより、仕事のほうが大事である。それにはむだな神経をころし、仕事だけにうちこむことだ。健康を保って十年生き延びるより、その半分しか生きられなくとも、仕事をするほうが大切だ。こうしてまた、酒みずくに戻ったのである。もし宮田新八郎がこれを読んだら、さぞいい気分になることだろう。いつかA社の週刊誌に「私の養生法」というのを書いたとき、宮田新八郎はまったく信じられない、という筆ぶりで「こんどは不養生法を書いたらどうだ」といってきた。したがってこの項は、充分に彼を満足させるだろうと思う。

林芙美子さんが急死されたとき、「ジャーナリズムが殺した」という評が弘[ひろ]まった。冗談ではない、作者はそんなものに殺されはしない、作者は自分の小説によって殺されるものです。

「個人再生を夢見て - 高橋三千綱」07年ベスト・エッセイ集から

人はいくつになっても夢を語れるものなのだろうか。いや、いくつまでなら、夢を語っても笑われることがないのだろうか。

そういうことを五十八歳の誕生日の日に考えていた。おまえの夢のことなどだれも興味がない、ときっとみんなからいわれることだろうなと思いながら、自分の夢は個人再生をすることだなといいきかせていた。

これは私が借金地獄に陥っているとか、闇金融業者から追いかけられているということではなく、作家としての再生を夢見ているということなのである。

私は自分が世間から忘れ去られた人間であるということが分かっていても「ま、いっか」で済ませてしまう楽天的な男なのだが、昨年一年間で書いた小説がわずか百八十枚となると、これはさすがに悲惨な状況だなと思わざるを得ない。

仕事をしないのは、酒を呑んでいる時間が長いからである。二日酔いで朝を迎え、夕方までに二度昼寝をして、暗くなると小料理屋のカウンターで熱燗を呑んでいるのだから身体から酒の抜ける暇がない。近くの医院で検査を受けたら、γ-GTPが1020にもなっていて、これは久しく見たことのない数字だと医者からあきれられ、自分にとっても最長不倒距離だといったら肝硬変にリーチがかかりますよとたしなめられた。

糖尿病なのでいつも身体がだるい。たまに固形物を口にすると、一時間ほど横になってからでないと次の行動がとれない。その行動にしたって新聞を読むことくらいのものなのだ。指が震えることもあり、爪を切るのに一苦労する。

すべて酒が原因なのだが、これがやめられない。いきつけの小料理屋では私の名前にちなんで「三千盛」という酒を仕入れてくれている。五日間で四本が空になる。酔っぱらって家に帰ってくると、妻と母が不安そうな顔でそこいらに立っている。

九十四歳の母に向かって、先立つ不幸をお許し下さいとは横着者の私でもいえないから、コソコソと寝室のある二階へ昇っていく。足がもつれて寝室までたどりつけず、踊り場で眠ってしまったこともあった。

仕事をしないのだから収入がない。企業のマトリックスに分類すれば、債務超過、営業赤字の状態にある。個人秘書がついてきてくれるのは、彼女のボランティア精神のあらわれである。

そんなこんなで五十八歳の誕生日に再生を誓った。まず、六十歳の誕生日までに小説を三冊出す。エッセイを二冊。合計五冊。その内の一冊くらいは十万部を超えてくれるだろう、とお気楽なことを夢想していた。ご機嫌なっていたのは、酒を呑んでいたからである。

生活費は、会社を上場させて大金持ちになった幻冬舎見城徹に借りるか、株の売買でひと山当てるかすればなんとかなる。そうだ、夢の三連単で一〇〇万馬券を当ててみるのもいいかもしれない。

そんなことを考えていい気分になった翌朝の膳にはビール瓶が置かれていた。インスリンを脇腹に打ち込んだ後、五十八歳までたどりついたお祝いだと呟いてグラスにビールを注ぐ。そして嬉しいことに、その瞬間から、その日一日を、幸せ色に染めあげられて過ごすことができるのだ。

ベッドに再び横になった私が夢見るのは、スコットランドをひとりで旅した五年前のことである。その頃はまだ元気だった。旅をしようという気力があった。車を運転して見知らぬ町に入り、ゴルフ場を訪ね、たまたま一緒になった人とゴルフをする。

荒涼とした光景の続く北端をいき、一日の内に四季のあるスコットランドの気候の洗礼を受け、くたくたになって小さなホテルにたどりつく。そこの主人が料理してくれたローストビーフに舌鼓を打ち、スコッチを呑む。

スコットランドにはどの町にもゴルフ場がある。排他的な名門クラブでない限り、いついってもプレイをさせてくれる。あれは、ブロアというゴルフ場だった。夕方近くにいったら、もう客はいないのでひとりで回ってくれといわれてすぐスタートした。

海につきでた草原のゴルフ場で、風がきつかった。空には厚い雲がかかり、遠くの雲はどす黒くなって垂れ下がっていた。さびしいはずなのに何故かあたたかい雰囲気に取り巻かれている。それは山羊たちの姿がコースに点在しているからだった。ティインググラウンドに佇んでコースを望むと、フェアウエイに山羊が何十頭と出ている。草を食べているのもいれば、真ん中で座り込んでいるやつもいる。

ボールを当ててしまっては可哀相なので、オーイ、打つぞーと声をかける。何頭かはのそのそ動きだすが、全然無関心のやつもいる。それで山羊に当てないように神経を集中させて、あいた隙間を狙ってティショットを打っていく。

ボールはドローを描きながらフェアウエイに落ち、山羊の間を転がっていく。二打目地点では山羊が私を待っていて、アドレスに入る私をじっと見ている。私の打ったボールはグリーンをとらえてピンに寄っていく。

よしやったぞ、バーディーチャンスだ、と私ははしゃぐ。しかし拍手は起こらない。山羊どもはつまらない顔をしてゴルフバッグを担いで去っていき日本人を見送っているのだ。

ティインググラウンドに何頭もの山羊がいたホールもあった。そこでも私は快心のショットを打った。しかし何の声もかからない。見ているのは口のきけない山羊どもなのだ。

フェアウエイに向かいながら、寂寥感に襲われていることに私は気付く。いくら山羊の目に取り巻かれていても、相手はゴルフの楽しさを丸で分かっていない家畜なのだ。一緒になって喜んでくれることは決してない。

ベッドに横たわり天井を眺めながら、しかし、面白い体験だったと胸の内で呟いている。パー3のコースではあわやホールインワンの好ショットが出て、グリーンを取り囲んだ山羊の群を見ながら、思わず「入るな!」と叫んだことも思い出した。それでひとりでにやにやする。

スコットランドではあちこちのカジノにも顔を出した。老人たちが多く、一ポンド、二ポンドと少額の賭けを楽しんでいた。バーにいくと歳をとった女たちが、厚く化粧をしたすさまじい顔で迎えてくれた。あたしの胸は一メートルもあるのといって、両手で自分の胸をつかんでいた大柄な女もいた。リバプールの町で出会った女とは、ロンドンで再会を約束したものだった。

ロンドンからパリに渡り、ドーヴィルに足を伸ばした。競馬場のある静かな町は八月になると様相を一変した。世界中のあらゆるところから金持ちが集まってきて、夏のフランスを堪能していた。

ここで出会った女におかしなやつがいた。あるときホテルのテラスからゴルフ場を見下ろしていると、「ああ、あなたなのね」と声をかけてきた若い女がいた。ちょっとこぎれいなフランス女だった。

「フロントでひとりで泊まっている日本人がいると聞いたからどんな人かと思っていたの」

女はそんなふうにいって私の隣に佇んだ。六本木に事務所のある広告代理店で働いているとかで、夏休みでパリに帰ってきたばかりだという。そんなことを話していると、どこからか小太りの男が現れてきて、どこにいたんだ、ずっと捜していたんだと目をぎょろぎょろさせていった。

女は、この人の幼なじみで、パリからここまで運転してもらったの、と説明した。昨日の夜中に突然ドーヴィルに行こうといいだすんだから参っちゃうよ、と男は文句をいっていた。

その日、そのふたりを連れてカジノで遊んだ後、海岸にいった。水着をもっていなかった女は、ブラウスを脱ぎ、ブラジャーをはずして遠浅の海に向かって走り出した。私は男に、おい、追いかけなくていいのかといった。逡巡のあと、彼女はいつもトラブルの元なんだと呟いて、女の後を追いかけていった。しばらくして女は上機嫌で戻ってきて、ズボンを穿いたまま海に飛び込んだ男は赤い目をしてふてくされていた。

その男女は翌日パリに戻っていった。数日後にパリにいった私は連絡をとって女と会い、夕食をとった。明日はロンドンに戻ると私がいうと、じゃああたしもロンドンにいくと女がいった。

しかし、待ち合わせの場所に女は現れなかった。夕食のあとでディスコに行こうという女の誘いを断って私はホテルに戻ったのだ。女は夜通し踊り、そのままどこかで沈没してしまったのだろう。女が約束を守るとは思えなかったが、汽車の発車する時刻になっても女が現れなかったときは、ちょっと落胆したものだった。

そういう様々な場面を思い出しているのが、私の夢の時間だった。そのような旅をするにはまず体力をつける必要があった。家の階段を昇ることもできずにいる私には遠い光景だった。

昨年、スポーツジムの会員になった。少しは筋肉をつけなくてはゴルフもできなくなると思って入会したのだ。だが、ボディコンバットという初心者マークの出ているグラスに出た私は仰天した。ボディ・コンバットを、ボディコン・バットと聞違えた私は、ボディコンのネーチャンがバットマンみたいに逆立ちでもするのだろう、と酔った頭を振りつつ参加し、そこでキックボクシングを三十分間みっちり仕込まれ、へろへろになって家に戻り、それ以降一度もジムには顔を出すことなく、会費だけを払い続けているという軟弱さなのだ。

夢の出版、夢の旅を実現するには自己改革を決断して、身体を再生する必要がある。だが、だれにでも簡単にできることが私にはできそうもないのだ。

それでももしかしたら、この男にも根性が残っているのかもしれないと期待するものがある。それは陶芸家の河井寛次郎がいった言葉に激しいショックを受けたからである。河井はこういっている。

「この世は自分を見に来たところ。この世は自分を発見しに来たところ。新しい自分が見たい。仕事する」

私も新しい自分を見たい。夢も現実のものと私自身を見たい。

息子を見て笑顔を浮かべる母を見たい。それが親孝行というものだ。そう思うからである。