(巻三十五)ススキ対アワダチソウの関ケ原(大木俊秀)

(巻三十五)ススキ対アワダチソウの関ケ原(大木俊秀)

12月12日月曜日

5時半ころ目覚めてICレコーダーでBBCを聴こうとイヤホンを耳に差し込んだが音が来ない。ジャックの根元を揺すったらちょっと音が入ったが、切れた。やむを得ず、昨年ビックカメラで取り寄せてもらって備蓄していた4本のイヤホンのうちの1本を投入した。線で繋がる安いイヤホンがいつまで存在するか甚だ心もとない。またビックカメラにお願いしてみよう。

朝家事なし。細君とアリオのヨーカ堂へ風呂マット、椅子、掃除ブラシなどを買いに出かけた。ようはシェルパだ。所望の品はすぐに揃い、細君は2階に降りてトレーナー、下着なども買っていた。1階のパン屋で昼飯にサンドウィッチなど買ってさっさと帰宅した。

そのサンドウィッチ他で昼飯を済ませ、洗濯をいたし、ベランダに干して一休み。

散歩に出かけたが、小腹が空いてきたので青戸8丁目に残る町中華狸小路」でカレー炒飯を食べて一合飲んだ。腹持ちがよいと云うよりもたれる。夜になってもゲップが出て、カレー味がした。

帰り道にクロちゃんに挨拶。二袋目が終わったところで「これでおしまい。」と云うといつも座っているところへ戻っていく。猫はバカではない。

帰宅して洗濯物を取り込み、Yシャツ4枚にアイロンをかけた。

願い事-涅槃寂滅です。佐藤蛾次郎さんがお亡くなりになった由。御本人がどのように思われたか知る由もないが、端から見ればお見事なと羨ましくもある。

日がな碁をうちて晩酌ほろ酔いで

風呂に入りて父逝きにけり(石川義倫)

ポックリ願望はある意味普遍で高齢者にその筋の随筆は多い。例えば、「九十一翁の呟き(抜書) - 南條範夫」。

猫派の随筆も多い、というか犬随筆もたくさんあるのだろうが猫派としては猫随筆を集めてしまう。そんな中で嫌猫随筆に「猫 - 奥本大三郎」がある。

「九十一翁の呟き(抜書) - 南條範夫」文春文庫 01年版ベスト・エッセイ集 から

九十年以上も生きてきたのだから、もういつ死んでもいいと思う。負惜しみではない。本当のところもう心残りするほどのものは無くなってしまっているのだ。

この二、三年の間に身辺の整理もほぼ終った。各種の手記、書簡類など凡て始末して了[しま]ったし、思い出の深い写真なども皆焼却してしまった。こんなもの凡て、この自分にとっては懐かしく強烈な、或いは大切な憶い出をひそめたものであっても、他の人々には何のこともないただの紙屑に過ぎないだろう。

書画骨董などには大した趣味を持たない私の身辺に残った主なものは、四万冊近くの書籍だけだったが、これも大体売却し終って、僅か二千冊位残っているだけ、こんなものは私の死後、どう処分されてもよい。

いつ死んでも誰にも迷惑のかからないようにしてあるつもりだし、後に残った家族のものが特に困ることのないように一応の配慮もしてあるし、あとはどんな死に方をするかということだけだ。

高校時代の友人T・Kが数年前に死んだが、その死に方は実に羨ましいものだった。夜遅く、二階のベッドに横たわって書物を読んでいると、細君がお休みを言いに来て、階下に降りていった。翌朝、いつもの時刻にKが降りて行かなかったので、細君が二階に上ってみると、Kは右手に読んでいた書物を開いたまま持った形で、安らかに死んでいた。前夜おやすみと応じてくれた時そのままの穏やかな表情だったと言う。

これは理想的な死に方だ。できれば私もそんな風にして死にたい。

死ぬこと自体にはもう何の恐怖もないが、長い間病臥[びようが]したり、死際に肉体的苦痛を訴えつづけるような死に方は、考えただけでもゾッとする。楽に死にたい - それだけが今の願いだ。

もうどうせ長くないと医学的に判断され、自分でもそう覚悟した時、安楽死することを認めてもらえないものだろうか。ただ無闇に生命の継続だけを目的としているような現在の医療方法は、どうにも納得できない。殆ど生の自覚を失っている病人を薬や注射でむやみに生存させている状況をよく見せられるが、そうした場合、ただ残酷なという印象しか持ち得ない。

本人が希望した時は、医学的に安楽死させることを認める法律が何故できないのか私には解らない。死際の肉体的苦痛くらい嫌なものはないだろう。

私は来世などというものは全く信じていない。死んでしまえば塵芥[じんかい]となってしまうのだ。そしてそれで良いではないか - そう思っている。

「猫 - 奥本大三郎」文春文庫 91年版ベスト・エッセイ集 から

庭で犬が吠えている。はじめは怒ったような声だったのが、そのうちに「キューン、キューン」といいはじめた。

二階の書斎の窓をあけてヴェランダに出てみると、思ったとおり、猫にからかわれてうちの犬がいら立っているところである。私がそうっと出て行って上から見ていると、犬がこっちを見あげて、「も-、何とかして下さいよ-」という顔をする。

お隣りての境のブロック塀の向うに、小さな白い猫がうずくまっていて、ブロックにあけてある風通しの穴から、面白そうにこっちの庭を覗いているのが、上からよく見える。それから白い華奢[きゃしゃ]な右手を穴からこっちの領分に突っ込んで、二、三回、引っ掻くようなまねをした。やっぱり右利きであるらしい。ペローの物語にでも出てきそうな、肘まである白い長い手袋をはめた貴婦人のような腕である。

それでべつに犬の鼻面でもほんとうに引っ掻いたわけではないらしいのだけれど、犬はいっそういら立って、吠えている。まるでここ掘れわんわんのポチのような興奮ぶり。猫の身になって考えればずいぶん危険なことをするもので、穴から出した手をがぶりとやられたらどうするんだ、と言いたくなる。骨も何も砕けてしまうだろう。それでも猫は平気で何度でもやる。

昔、犬を鎖につないでおいたら、犬の手の届く範囲のちょっと外で、わざわざ猫が大あくびをするのを見たことがある。犬が怒り狂って小舎[こや]から跳び出して行っても、ぎりぎりで届かない。猫はそっちの方を見もしないで、悠々と歩き去って行くのである。

いら立つ者の神経を逆撫でして楽しむ。そういうところは、はなはだ猫的で、猫嫌いの人の猫の、まさにそこが嫌いなのであろうけれど、犬にしても、多少、そんな性質はもっているものである。毎朝、五時か六時ごろ、御老人の散歩者が犬を連れて、この近所を通る。すると、うちの斜め向いのテリアが羨ましさと悔しさで、やはりブロックの穴から絶叫する。

主人と一緒の犬は、綺麗なシェトランド・シープドッグなのだが、そのときまったく相手にならない。神経質のカタマりのような塀の中の声を完全に無視して、いやむしろ主人と共にいることの楽しさを強調するように、いそいそと小走りに、その穴の前を通り過ぎる。早朝のこの繰り返しは、テリアにとっては精神衛生上、まことによろしくなく、シープドッグにとっては、それだけで楽しさが増すようである。誰でも、自分が幸せであるだけでは充分ではない。やはり他人が不幸でなければ。

犬をからかう猫は毎日来る。時間はべつに決まっていなくて、どうやら退屈になると来るようである。しまいにその数が二匹になって、白と雉猫が入れかわり立ちかわり、やってくるようになった。

私は本来、犬の味方でも猫の味方でもないけれど、犬はうちで飼っていて、私のたった一匹の家来である。それが毎日、何の進歩もなく、屈辱を受けているのは見るにしのびない。

それで厳正中立を守ることができなくなって、ヴェランダの上から「しっ」と言ってみたのだが、猫はちら、とこちらを見るだけである。ものを投げるふりをしたら、一瞬ぎょっと身構えたけれど、何にも持っていないことはすぐに見破ったらしい。まったく平気な顔で、その場を動かない。こんな面白いことがやめられるかというところ。

だんだん腹が立ってきたのは、考えてみると犬も飼い主も程度が同じだが、「ようし」とばかり、いったん家の中にとって返した。何か投げるものを探すつもりである。とはいっても、私は暴力は好まないなら、もし万一猫にあたっても怪我をしないもの、それからもちろん、捨てても惜しくないもの.....と机の上を見渡しても、鉄の文鎮とか、辞典とか、顕微鏡とか、右の条件に抵触するものばっかりである。しかたがないから、はやる心を抑えて階段を下り、茶の間に行った。

するとそこに、梅干しの種が三粒ほど。しめたとそれを掴んで、足音をしのばせ、ヴェランダに出てみると、猫はまだブロック塀の穴から犬を覗いてからかっている最中である。「えいっ」と猫めがけて投げつけると、白い体のすぐ横の地面に落ちた。猫はふんふんとその匂いをかいで、ちらとまたこちらを見る。

続いてまた、大きく振りかぶって第二球。小さな猫は「うへー」という顔で、とっとっとっと行ってしまった。ペットの喧嘩に飼い主が出る。いかにも興醒めの体である。もちろん、決して恐縮などしていない。

こういう一部始終をしかし、近所の人に見られては具合が悪い。「あそこの御主人は、学校の先生を辞めたらしいけれど、昼間からパジャマで、いっしょうけんめい猫に梅干しの種を投げて、まあ」と言われても、まったくそのとおり。授業をしていても、学生があんまり無反応なので、あほらしくなって私は学校を辞めてしまったけれど、言葉ね変化球を投げつけてもほとんどまったく効果がなかったから、今にして思えば、教壇から梅干しの種を投げてやればよかったのである。鳩に豆鉄砲、学生に梅干しの種。

猫と犬のこのやりとりを見ていると、そもそも頭の良さには二通りあると思う。動物の知能を人間の基準で考えても意味がないかも知れないけれど、サーカスの芸などを教えれば、犬の方が猫よりはるかに難しいことができるであろう。しかし相手をからかったり、だましたりすることにかけては、猫の方がずっとうえのように思われる。一代の碩学[せきがく]が、海千山千の芸者に惚れてたぶらかされているような趣がちょっとある。

しかしボードレールの詩に出てくる猫などは、碩学と遊女、両方のイメージを合わせもつ謎めいた存在である。少くとも、「熱烈に恋する者も、謹厳な学者も、熟慮に満ちた歳ともなれば、ひとしく猫を好む」ようになると詩人はいう。猫は「学問と晩楽[ヴオリユテ]」との友なのである。そうして次の二節はまさに、そうした両面をもつ猫の姿を描いたものである。

瞑想にふける猫どもは さびしい土地の> その奥地に身を横たえ、果てしなき夢を見て眠る> スフィンクスの 気高い姿勢をとっている。

豊満な腰には魔法の火花が秘められ、

神秘の瞳には、黄金の破片が、

細かい砂粒のように、おぼろにちりばめられている。

ここでとうとうスフィンクスまでが出てきて、そのへんのただの猫どもが、じつはらいおんの親戚であり、何を考えているかわけのわからない存在であるという話になるわけである。

まったく猫族の動物はみんなただうとうと眠っていても謎めいて、何か考えているように見える。われわれ猿族の動物なら、よほどの修行、苦行の末にやっと身につけるような威厳と気品を、生まれつき身に備えているのである。頭はこっちの方がずっといいと思われるのだが。